【「治水学主河編」・「治水摘要」解題】

 「治水学主河編」と「治水摘要」,この二書が本邦初の河川工学図書である.この二書以前に刊行された河川工学図書は,少なくとも現在のところ見付かっていない.
 二書は共に全三巻で構成され,前者の「治水学主河編」巻壹の冒頭,訳例には,原書がストルム・ボイシン著書の改訂増補第三版,元治元(1864)年刊と述べられた上で,訳者,「熱海 篤 貞爾」と記され,訳出年は「明治4年辛未春」とある.他方,後者の「治水摘要」首巻の冒頭,小序には,原著がストルム・ボイシンの著書であることが述べられた上で,訳者,「熱海貞爾」と記され,訳出年は「明治4年辛未冬」とある.
 明治4(1871)年と言えば,ファン・ドールン(van Doorn)がオランダ人の河川技術者として初めて来日した1年前のことである.しかも,治水にかかわる政府機関は会計事務局営繕,会計官営繕司,民部官土木司と変転し,この時期,内務省は設立されていない.つまり,オランダ人の河川技術者が来日する以前,そして治水機関が未だ確立されていない時期に,オランダの河川工学図書が輸入され,二書が訳出され,刊行されていたことになる.

 では,二書は,誰が,どのような動機をもって訳出され,刊行されたのか.残念ながら,これを知る手がかりは,現在のところ明らかになっていない.

 さて,二書の著者,ストルム・ボイシン(Storm Buysing)の来歴等は,井口昇平の研究成果によると以下のようである.
ボイシンは,1802年にオランダのLeeuwaardenで産まれ,1818年にはオランダの土木行政部局の幹部候補生に任命されてDelftの陸軍砲工学校に入学した.
そして1835年,Bredaの陸軍大学校の水工学の教官に任命された.Breda陸軍大学校から工科学校が独立した1844年,ボイシンはWaterboukunde上巻を刊行し,翌1845年にWaterboukunde下巻と別冊が刊行された.工科学校における教授への昇任は1859年,Waterboukundeの改訂増補第三版の刊行が1864年である.つまり,これが二書の原著で,ボイシン没年は1870年である.

このWaterboukundeの改訂増補第三版を原著として訳出されたのが二書で,井口昇平によると,「治水学主河編」は,Waterboukunde下巻第1章「オランダのおもな川」の前半部の完訳で,「治水摘要」は,Waterboukunde下巻第1章「オランダのおもな川」と第2章「川および運河による舟航」の部分訳であるとしている.

 他方,訳者,熱海貞爾は1836(天保6)年,宮城県で産まれ,白石城主片倉氏の家臣となった.その後,江戸で大槻俊斉から蘭学を学び,仙台藩に召し出されて養賢堂洋学教授となる.そして,戊申戦争の際,旧幕軍に係わり,後の明治3年,福沢諭吉の取りなしで翻訳官に就き,明治9年には内務省土木寮に属していた.没年は1884(明 治17)年である.

 そこで以下,二書を読む場合の要点として,二書の刊行の目標や書籍の性格等を概述する.
 まず,二書の刊行の目標に関し,「治水学主河篇巻壹」には次のような記述がある.
「河流ノ学…ヲ究メンニハ…」,「…高低流下放水ノ手段…要領等…ヲ講究…」.
つまり,「治水学主河篇」は,「河流の学」を究め,「放水ノ手段」などを考究するために訳出,刊行されたことになる.二書が刊行された目標がここにある.
 続けて訳者,熱海は,「原語ノ義ヲ直訳スレハ…患アリ」,「故ニ原意ヲ主トシ勉メテ其義に協フヘキ文字ヲ嵌メ…」と,オランダ原文を訳すに当たり,原文に相当する日本語がない場合は,「原意の義」に勉めて「文字」を当てはめたと記している.

 では,訳者,熱海は,オランダ語の原文,それも河川工学上の用語をどのように訳したのか,という視点で,具体例を引いて考えてみる.
焦点は「放水路」という用語で,これの考察を通して,二書の性格,また刊行当時における日本国内の工学上の問題の一端が明らかになる.
 著者,ストルム・ボイシンは,オランダ国内の河川改修の事例を幾つか挙げているが,その一つが,パンナーデン運河(Pannerden Kanaal)である.当該運河は,1707年,ライン(Rijn)河の分派川,ワール(Wael)河の洪水の負担を解消する目的で,右岸の都市パンナーデン(Pannerden)からレック(Lek)河に向けて開削された新川であって,この運河によってワール河の洪水量の1/3が放流されるようになった.つまり,パンナーデン運河とは他河川を放流先とする放水路のことである.

 このパンナーデン運河について,熱海は「治水学主河編巻弐」で次のように訳している.
「此溝渠ハ所謂『パンネルデンセカナール』ト唱フル者ニシテ…」,「其堀開ハ…要害ノ溝渠ナリ…」,「常ニ『ワール』ノ口ト『パンネルデン』溝…両河ヲシテ共ニ放水ノ事…ヲ約定セリ」,「『スペーキ』ノ堤ノ修復及ヒ保護ノ為ニ『ワール』ト『ネイーデルレイン』トニ其高水ヲ分ツ」.

 熱海は,ライン河の放水路の一つ,ネーデルライン河を「溝渠」あるいは「堀開」と訳し,また洪水の放流を「放水の事」あるいは「高水を分かつ」と訳したのである.こうした語訳は,「治水摘要」も同様で,「治水摘要首巻」第七の「漲溢及ヒ誘導ノ事」の章には,「堤防一タル破ルヽトキハ…溢堤或放水閘ヲ設ケテ…」とあり,また第八の「河状改正ノ事」の章では,「放水ニハ溢堤ヨリモ閘ヲ良トス」と訳されている.

 ストルム・ボイシンは,著書のなかで,ネーデルライン河などを事例に挙げて,河道の狭窄が原因となって堤防の破壊のおそれが有る場合などは越流堤あるいは分水門を設けて,超過する洪水を分派,分流する方法があると述べたけれども,訳者,熱海は,この水路を「放水路」という用語で訳すことはなかった.「放水路」という用語が使用されたのは,二書刊行後の5年後,明治9(1876)年の内務省第一回年報が初出である.

 日本では明治に至るまで,大和川や大野川,旭川など,諸河川で洪水を放流する目的の水路が建設されて来たが,これらは「放水路」とは呼ばれなかったし,「放水路」という洪水処理の概念それ自体も確立されることが無かった.この「放水路」のように,河川工学の用語は,明治になって初めて登場するケースが実に多く,近代河川技術は,全国的に通用する統一された用語の採用,また用語を規定する概念の咀嚼や検討が繰り返されるなかで確立するに至ったと考えている.

 このように,二書を河川工学上の視点から考察すると,明治初頭の治水関係者はオランダから何を学ぼうとしていたのか,さらに治水関係者の間ではどのような専門用語が使用されていたのか,という当時の状況が垣間見える.そういう意味で,二書は,河川工学の系譜を知るために,また近代初頭の工学上の課題を考究するために必読の書である.

参考文献
 井口昇平,「19世紀中期のオランダの代表的な水工学書Storm BuysingのWaterboukundeについて」,デ・レーケ研究第9号,地域開発研究会,1995.11.10.
 G.P.Van de Ven,"Man-made Lowlands(History of water management and land reclamation in the Netherlands)",Stiching Matrijs,1993.
 藤井肇男,土木人物事典,アテネ書房,2004.12.
 岩屋隆夫,日本の放水路,東京大学出版会,2004.11.16.

(岩屋 隆夫)
© Japan Society of Civil Engineers, JSCE Library