明治6(1873)年5月5日広島県三原市に生まれ、同31年東京帝国大学土木工学科を卒業ただちに内務省に入り、内務省第5区(大阪)監督署に勤務、当時わが国の最大の河川工事であった淀川改修の第12区新淀川開削に従事した。淀川改修に携わったのは明治44年までで、その間、官制改正により38年には内務技師、大阪土木出張所勤務となっている。 その後、明治44年4月内務省東京土木出張所に転じ、大正10(1921)年まで利根川第三期改修の田中工区および第三期主任としてその改修工事を担当した。この期間は利根川第三期のまさに最盛期にあたり、第三期改修は土工量だけでも4613万立方メートルという世紀の大事業であった。また、この間、大正3年には欧米各国を視察し、9年には河川改修に関する論文を提出し工学博士号を与えられた。 さらに、大正10年には東京土木出張所の工務部長、同13年には大阪土木出張所長に進み、昭和3(1928)年には東京土木出張所長に転じ、河川工事のほか昭和6年度から発足した直轄国道工事も統括した。昭和9年退官。 このように真田は一生のほとんどを治水に捧げ、創設期の淀川、利根川の改修事業の推進に大きく貢献するとともに、これらの事業を通して、各種の業績を残した。その一つは、学位にみる土工特に軌條運搬についてであり、機械掘削、機関車運搬を取り上げ、従来の人力、牛馬力との比較を実証的に行い、機械化施工の有利性を明かにした。いわば現在の機械化土工のまさに先駆者であった。 また、もう一つの業績は、古来からある水制工法に改善を加え、あるいはこれらを整理統合して体系化し『日本水制工論』を著わしたことである。特に杭打上置、合掌綴枠等は利根川第三期改修で研究され、水制工法上に一紀元を画したものとして広く各地で施工された。 真田はまた、後輩の指導育成にも多大の力を尽くし、その輩下には幾多の優秀な技術者が輩出し、直轄工事推進の一大原動力になった。土木学会関係では、昭和4年常議員理事、同8年第21代会長となり、昭和21年には名誉会員に推挙された。晩年も86才の高齢にもかかわらず『内務省直轄土木工事誌・沖野博士伝』を著わし、また、旧内務省の技術関係者の集まりである旧交会の会長として会員の信望を集めた。昭和35年没。 (『土木と200人』土木学会 1984 から引用。執筆担当:渡辺隆二) ・著書 ・論文 ・追悼文書 |
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