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八田與一 |
私の父與一は明治19(1886)年に石川県河北郡花園村(現在の金沢市今町)の庄屋の末男として生まれ、金沢一中,第四高等学校を経て明治43年東京帝国大学土木工学科を卒業,ただちに台湾総督府内務局土木課に勤務した.
若年のころは上・下水道事業等を担当したこともあるが終生を通じて河川利水事業に従事し,台湾における農業水利事業のほとんどを調査,計画立案,事業実施にわたって担当した.第二次大戦勃発の翌17年(1942年),占領したフィリピンに綿花栽培の水利事業を計画するよう陸軍から委嘱を受け,総督府勤務の部下3名とともに軍属として渡比する海上において乗船せる大洋丸が米潜水艦の魚雷攻撃を受け撃沈され,5月8日戦死した.享年56才.
大正初期に台北の南方,桃園台地を灌漑する桃園大しゅう(土偏に川、農業用水路のこと)の調査計画を行い,大正5年に着工,同10年に完成したが灌漑面積は3万5000町歩であった.この工事の途中から台南州嘉南平野15万町歩の灌漑のため調査を行い,計画がほぼ完成した時点で事業実施機関として大正10年嘉南大しゅう水利組合が設立され,父はいったん総督府を退職して組合に入り10年間をその水源である烏山頭貯水池事務所長として工事実施に携わった.嘉南平野15万町歩を灌漑するために,ゆ(さんずいに虫)水渓幹線と曾文渓幹線の二大幹線を築造し,曾文渓からの取水のために,これと並行する官田渓烏山頭地先に高さ56m,延長1300mの土堰堤を築造し,曾文渓からの取水隧道によって,このダムに1億6000万tの貯水を行ったものであり,土堰堤築造工法としてはセミハイドロリックフィル工法が採用された.
この工事の完成によって,ほとんど不毛の原野であったこの地域に毎年7万5000tの米,甘藷が収穫されるようになった.父は総督府に復帰し,その後勅技師に任ぜられたが,死ぬまで水利係長であった.しかし,台湾各州,各市の土木課長の人事を一手に握っていたことは現在では考えられないことである。烏山頭ダムの一端の小高い丘の上に地下タビ,ゲートル姿の父の銅の坐像が台湾の人びとによって再建され,その後後方には両親の墓がこれまた戦後再建された.現在でも毎年5月8日の命日には周辺の農民たちによってお祭りをしてもらっており,農民から神のごとく慕われているという.
(『土木と200人』土木学会 1984 から引用。執筆担当:八田 晃夫)
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