♦ 庄川・小坂・黒部川第二発電所−石井頴一郎旧蔵写真集− ♦

 ここに掲載する写真はゼネコン社史編纂室から寄贈のあったアルバム3冊で、中には庄川発電所建設および黒部第2発電所建設に関わる工事写真260点が収録されており、撮影者は石井頴一郎とある。石井の略歴は以下に記載したとおりであるが、この写真集には、著名な黒部川第2発電所建屋、橋梁(目黒橋)小屋平ダムも含まれており、そのアルバムの前書きには、以下のように記されている。

「此工事ハ黒部峡谷ノ自然美ニ人工ノ構造美ヲ調和サセルコトニ苦心シタ、日本第一ノ美シイ工事デアルト誇ル」

 石井は庄川、黒部川の発電所・ダムの設計技師として建設に当たるとともに、復興橋梁の意匠に関わった山口文象(建築家:1902-1978)を呼び寄せている。上記の一文は石井が山口を如何に高く買っていたかがわかるとともに、石井が土木構造物と自然との調和を常に意識していたことも理解される。

■略歴:『土木と200人』(土木学会、1984)によれば、以下の通りである。


石井頴一郎(いしいえいいちろう)

 明治18(1885)年12月19日横須賀市浦賀町谷戸に生まれ,浦賀小学校,東京府立一中,仙台二高を経て,明治44(1911)年東京帝大土木工学科を卒業,横浜市水道局,大正3(1914)年高松市水道工務部長,同7年西部逓信局水力課長,同9(1920)年宇治川電気土木部第一課長として宇治川堰堤,志津川,大峰両発電所工事に従事,同13(1924)年欧米へ水力発電工事視察出張,特に堰堤工事を研究した.
大正14(1925)年庄川水力電気土木課長となり,庄川小牧堰堤の企画設計施工に全力を注いだ(昭和4年竣功).
 当時,小牧堰堤はわが国最高最大規模で,一般に大量混凝土施工技術が幼稚であったので,直営施工とし,主な施工機械全部を米国から輸入した.
 昭和3(1928)年6月親会社日本電力土木部長となり,引き続き庄川,益田川,黒部川の水力開発を担当した.
 昭和8(1933)年7月ストックホルムで開催の第1回国際大会堰堤会議に日本代表として出席,小牧堰堤に関して「混凝土硬化温度と堤体の変形について」論文を提出,初めて堰堤内部温度と変形を築造当初から測定解説したもので,わが国堰堤技術について万丈の気を吐いた.

 昭和9年日本電力取締役技師長となり「堰堤内部温度の堤体混凝土強度に及ぼす強度」を研究,昭和11(1936)年8月ワシントンで開催の第2回国際大堰堤会議に再び日本代表としてこれを発表,大堰堤国際委員会から,感謝状を受領.
 同年富山県電気局顧問,有峰堰堤工事に助言した.昭和12年東京大学から工学博士を授与された.昭和13年群馬県水利局顧問,八木沢堰堤を研究した.同年10月日本電力辞任.台湾電力顧問就任.大甲渓,その他の堰堤・発電所につき工法指導した.
 昭和26(1951)年建設省中四地建物部側堰堤顧問,岡山県旭川堰堤顧問(非公式),同31(1956)年三菱日本重工顧問を勤めたが,剛直な性格のため東京から煙たがられていたようである.とはいえ,わが国混凝土重力堰堤の創世記に新技術をもって卓越した指導力を発揮した功績は大きい.

 さらに,同31(1956)年関東学院大学教授,同26年から46年まで横須賀市三浦高校長を勤めた.昭和18年逓信大臣表彰,同31年藍綬褒章,同42年勲四等瑞宝章および同年私学振興の功績により横須賀市長表彰を受けた.昭和47(1972)年11月出生地で86才の生涯を閉じた.(落合 久四郎)


【メモ1】:石井は『ダムの話』(朝日新聞社,1949)というエッセイ集を出版しており、土木図書館にも所蔵がある。(同書に「八田堰堤」という一文があり、その中で八田與一(学年は八田が1年上)と親友であったこと、遺稿が見つかったので紹介するとして、八田與一が嘉南大しゅうで烏山頭ダム建設時に採用したセミハイドローリックフィル工法は自前で構想していたものであったことを述べている。)

【メモ2】:石井は横須賀自然・人文博物館に図面230点(通称「石井コレクション」。横須賀製鉄所・浦賀船渠関係資料とともに草創期の各地造船施設資料を含む)を寄贈しているが、同博物館菊池学芸員によれば浦賀ドックの建設にあたった杉浦栄次郎は石井の伯父にあたるとのことである。

【メモ3】:石井は山口文象とどこで知り合ったのだろうか?篠原修『日本の水景』(鹿島出版会,1997)中に「建築家山口文象の橋とダム」の章があり、それによれば田中豊の紹介とある。田中は石井の2年後輩にあたるので、日本一美しい発電所・堰堤を設計したいとの石井の思いを知って、震災復興橋梁の意匠を手がけていた山口を紹介したのだろうか?同章にはまた以下の記述がある。
「清洲橋の意匠は山口文象によったといわれる。今手元にある『建築家山口文象』を見ると、豊海橋、聖橋等とともに清洲橋のパースがある。タワーの門型の形が実現したものと違っているのがわかる。本当に文象が意匠を担当したのだろうかという疑問がおきる。聖橋の意匠は山田守が担当したはずなのに、なぜそのパースが掲げてあるのか。文象はこの時点ではパース描きにすぎなかったのかも知れぬ。文象は逓信省のエリート建築家山田守の紹介で、復興局橋梁課に職を得たのだった。後年文象はバウハウスのグロピウスのもとに修行に出かけるが、堀口捨己の紹介状には「Maler und Architekt(図案家であり建築家)とあったという。当時はそう見られていたのではないか。」
 山口文象の才能が開花するのは、小屋平堰堤・目黒橋など一連の発電所関連の意匠設計においてであり,篠原も同書で絶賛しているが、その陰には石井の尽力が少なからず寄与している(例えば上記のドイツ行きは建前はダム技術調査とのことであり石井が命じた可能性が高い)と思われる。

(jscelib sakamoto)







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