「関東軍特務部時代の秋山中佐を偲ぶ」本間徳雄(元 満洲国水力電気建設局長)
満洲時代の秋山君を語るには如何しても、軍の特務部、及び政府の国道局の由来に触れる必要がある。統治部と云へ特務部と称するも要は軍政と非難さるるを避くる隠れ言葉であったであろう。そこで軍は満洲建国組の長老や、日本に於ける斯界の最高権威を集めて特務部顧問団を組織し、施政の実務に当たらしめた。初代特務部長としては建国党の首領満鉄社員農学博士駒井徳三氏(初代満洲国総務長官)を起用、政務顧問には宇佐美勝夫氏(後日本宮内府長官)技術には大村卓一氏(後満鉄総裁)等をトップ・レベルとし其他各種専門の人材を多数集合待機、新政府成立に備えた。軍が秋山君をこの特務部参謀に任命したのは名人事で氏独特の笑顔で一言居士の多い顧問団を丸く治めて居った様であった。
新政府が発足しても版図の大半を為す辺境の地には匪賊即反満抗日の徒の横行甚だしく匪賊討伐即治安の維持が建国最初の仕事であった。そこで関東軍から政府に治安道路の緊急建設を要望両者研究の結果、総理直轄の交通省或は建設省の様な機構を設くることになった。
筆者も大村顧問の招請で朝鮮総督府より駆けつけ、秋山君を加えて三人鼎座熟議談合官制や予算等を組んで人事の件も済ませ二ヶ月許りかかって大同二年三月一日(昭和八年)国務院国道局官制が閣議を通過した。満洲には議会がないから閣議が最高権威であった。
かくして国道局は当時特務部顧問の藤根寿吉氏(前満鉄理事)を局長とし、秋山君を通じ、関東軍の助力(これなしには現場立入り不能)を得て華々しくスタート、開庁即着工の態勢であった。局の主使命は先述の如く一万粁治安道路(当時は討伐道路と称した)の速成であったが、官制の上では全満の河川・港湾・都市等一般の建設事業をも掌握した。
事変直後から軍の方でも第一線で討伐道路工作を進めて居ったが、其指揮者には多数の工兵、左官級の退役軍人が居り国道局の先発部隊の有様であったが局、開設と共に合体編入された。此等軍出身の人々も沢山局の要職に着いたので、秋山君の責任も益々加わった。
遠藤 貞一編『秋山徳三郎君の思い出』(新光道路(株)発行(非売品)、1968)
秋山の満州滞在は、わずか一年半弱、国都・国土の建設もまだ緒についたばかりで帰朝ということになったが、この間の秋山の業績は短期間のわりには特筆される点がいくつかあった。
一点は、新京などに見られる都市計画の壮大さである。彼は一時期、関東大震災の復興局の嘱託になって、復興計画にたずさわったことがあるが、その際、「後藤(新平)の大風呂敷」といわれたほど思い切った壮大な復興計画だったものが、結局はしぼみにしぼんでごく平凡な計画に終わってしまったという苦い経験をしていた。秋山はこのときの憂さをはらすように、当時の日本では考えられないような、思い切った壮大な計画を進言し、かつ震災復興当時復興局で働いていた技術者を満州に呼び、その計画の実施にあたらせたのである。
二点目は、満州建国にあたって、現在でいう社会基盤整備が最重要項目であり、土木技術者はいくらいても足りない状況だったにもかかわらず、前述した復興局にいたころの人脈で、多くの人材を引っ張ることができたことである。送り出す側は内務省、それも同省の名物課長だった牧野雅楽乃丞、そしてその下にいた遠藤貞一の二人が取り仕切った。
牧野は東大の土木工学科で秋山の一〇年先輩、道路の専門家で昭和六年に常盤書房から出版された『高等土木工学』の第八巻で「道路工学」を執筆していた。道路に関して当時では唯一ともいえる専門書で、秋山も参考にしていたし、とくに飛行場の舗装に関しても記述していることに注目していた。遠藤はエンテイと俗称された内務省の名物役人で、同省の技術者人事を一手に動かしていた。と書けば、相当のポジションにいたエリート官僚とも思われるだろうが、実は大学の出身者ではないために高等官や奏任官である技師にもなれない一技手であった。しかし、のちに「勅任(軍人なら将官、役人なら局長クラスに相当する官職)技手」とまで呼称されており、技術者の戦後処理にまで大きな影響力を持ったほどで、秋山自身、公私にわたって親しい付き合いをしていた。一説によれば、建国から昭和十三年七月までの間に、満州にわたった土木技術者の数は一〇〇〇名を超えたといわれている。
満州で受け入れる側だった秋山は、ただ無責任に技術者を受け入れたわけではなかった。当時、内務省の土木局長はおろか技術課長ですら事務官僚がポストを占め、技術者はつくことができなかったほど、事務屋と比較すると一段も二段も低く扱われていた技術者の地位を、待遇面で優遇する処置をとったのである。技術者にとっては画期的なことだった。その代わり、主要な技術者については、秋山自ら一人ひとりの履歴書をチェックしたという。
三点目は、満州の開発を短期間で迅速に行うために建設機械の導入を図ったことである。この点は、ロンドンでの研究テーマの一つであり、秋山が達した結論は、満州のような広大な地域での道路工事には建設機械の導入しかないということであった。しかし、日本には、まだ信頼できる建設機械はない。ロンドンで研究した結果、欧州では、国土の大半が海面下で開拓工事の進んでいたオランダ製の機械が優秀ということで、道路工事用の建設機械一式を購入した。ブルドーザ、モータグレーダー、牽引式のスクレーパーなど、いまならごく当たり前の建設機械であったが、当時の日本人にはまだ珍しさが先走るような機械類だった。
秋山にしてみれば、あくまでも作業効率をあげるための技術者としての判断であったが、土木工事は人力によるのが主力だという考え方は、広大な満州においてさえ払拭しきれず、結果としては、わずか首都新京と吉林間約一〇〇キロに採用されただけで終わってしまった。満州では賃金の安い労働者(クーリー)が多く、安い労務費との比較で、高価な機械導入はまだ難しい状況だった。それに、機械を使用することで、労務者の仕事を奪うということは、人身掌握という国策上、望ましくなかったのである。
土木機械の導入という秋山の斬新なアイデアは、ここでも座礁したといえる。そしてこのことが、太平洋戦争下で、日米間の土木工事力の大きな差ということで戦局に抜き差しならぬ影響をもたらすとは、秋山ですらまだ気づいてなかったし、いわんや日本軍部の思いもよらぬ事態だったのである。
最後に四点目として付け加えるなら、彼が調査した結果をベースにして、のちに関東軍は、ヨーロッパの有名な城塞の名をとって、東方のマジノ線と称する築城計画に着手した。昭和十二年から十三年にかけてで、戦雲急を告げていた昭和十六年には関東軍築城部も設置され、東寧、綏芬河、虎頭、[愛(王+愛)]琿といったような要塞が建設された。大戦末期のソ連参戦時に、関東軍はもろくも総くずれになったが、要塞そのものは頑強で、虎頭の養成はソ連軍の猛攻にも寡兵でよく耐え、陥落したのは終戦後一〇日以上も経った昭和二十年八月二十六日だったと報告されている。
『技術中将の日米戦争―陸軍の俊才テクノクラート秋山徳三郎 』(光人社NF文庫、光人社、2006、pp.127-131)
昭和八年(大同2年) 八月二十九日 火曜日 晴
午前八時藤根さんより電話ある。新京、吉林間の道路に機械を使用したいと思ってゐる、機械力の偉大なのを見て貰ひたい、価格は二万円位であって、労力を省く事は非常なものだと云はれるので、拝見させて貰ふ事にする。十時藤根さんに会ひ説明を聞き、中村顧問星出と三人で道路工事の現場に行く、成程有力なトラックターである。露西亜人が運転してゐる。その機械の運転方は到底日本人や満州人には出来ない様に思はれた。どんな木株や岩があっても掘起して引張って行く力は偉大である。成程機械力は人力の何倍にも相当する事を知ったのである。唯天候の悪い時には思ふやうに運転出来ないであらうと思った。一時間ばかり見て。帰りに藤根さんに会ひ、非常に参考になった、満洲土建界も機械使用方法を研究せねばならぬ事を痛感しましたと話す。
『榊谷仙次郎日記』榊谷仙次郎日記刊行会(鉄建建設株式会社内),1969,p.931
▲とじる