沖野忠雄略歴及び著書・論文等

沖野忠雄晩年
沖野忠雄
略歴
  「明治改修」は、使命感をもつ多くの技術者たちの努力によって進められていったが、その代表的な技術者が沖野忠雄(第2代土木学会会長、1854〜1921)である。(中略)沖野は、安政元年(1854)、但馬豊岡藩の下級武士の三男として生まれたが、明治3年(1870)、藩の貢進生として大学南校に入学し仏語科に籍を置いた。この後、開成学校諸芸学科に進み、9年6月に文部省から物理学修業のためフランスへ留学が命じられた。試験の後、同年10月、工学の名門エコール・サントラールに入学を許可された。ここの土木建築科を12年4月に卒業した後、パリで実地研究を二年間行い、14年5月、帰国した。この後しばらく、職工学校(現在の東京工業大学)に勤務した後、16年、内務省入省となるのである。この時、29歳であった。
 さて明治の河川行政にとってエポックとなったのは、明治29年(1896)の河川法の制定である。その実現には、淀川の改修期成運動が重要な推進力となったが、この淀川改良計画を現地の監督署々長として策定したのが沖野であった。24年から地元支出による測量が行われ、27年、沖野は内務大臣に「淀川高水防御工事計画意見書」を提出した。この後、土木技監・古市公威たちからなる技術官会議でこの意見書は審査され、若干の修正が命じられた。そして翌28年に改修計画となり、いつでも着工できる状況となったのである。河川法制定に対し、現場の実務面で沖野が重要な役割を果たしていたと評してよかろう。
 これ以前の沖野の業績をみると、明治19年(1886)に「富士川改修計画意見書」を作成、また信濃川、北上川、庄川、阿賀野川の修築工事(低水路整備が中心)に従事した。その後22年、大阪土木監督署勤務となって木曽川、淀川を担当することとなったのである。明治29年度以降、40年度までに淀川ほか9河川で国直轄による改修事業が着手された。この時期、沖野は署長・所長として大阪にあったが、淀川改修のみならず、多くの直轄改修に関係していった。
 30年6月には、石黒五十二(第4代土木学会々長)とともに土木監督署技監となり、東の一区・二区・三区は石黒、四区から七区の西は沖野の受持ちになった。土木監督署技監は暫くして廃止となったが、石黒が31年、技監として海軍に転じたので、直轄改修において沖野の役割は一層、高まり、この後、38年に土木局工務課長を兼務した沖野が、直轄改修において指導的役割を担ったのである。
  明治43(1910)年、わが国は大水害に遭遇し、これを契機に臨時治水調査会が組織された。沖野は技術陣を代表し、土木局調査課長・原田貞介(第8代土木学会々長)とともに委員として参画した。この調査会により、それまでの国費による治水事業費単年度2百万〜3百万円位だったのが、20カ年1億8千万円とする第一次治水計画が樹立されたのである。また技術陣のトップとして新たに内務技監が設置され、沖野が任命された。ここに沖野は、名実ともに内務省技術陣のドンとなったのである。
 大正7年(1918)の退官まで、沖野は技監として予算権・人事権を一手に握り、全国の直轄改修を指導した。技監として歴代の大臣の信用も篤く、治水事業は沖野一任であったという。また事業の有利な進捗のためには法規一点張りの議論に耳を貸さず、内務省のローマ法皇と異名が付けられ、「あの老爺さんが大臣の所に行くときはすばらしい勢いであった」と、後々まで語られていた。(後略)
(『沖野忠雄と明治改修』土木学会 2010 「はじめに−沖野忠雄の活躍」から引用。執筆担当:松浦 茂樹)

●関連図書
分類
書名
発行所
発行年,頁
容量
リンク
真田秀吉編著
内務省直轄土木工事略史/沖野忠雄博士伝
旧交会
1959(昭和34)年
計15MB
内務省直轄土木工事略史/沖野忠雄博士伝 


●関連文献
分類
書名
発行所
発行年,頁
容量
リンク
会長講演
道路港湾並に河川改修事業に就て
土木学会誌 3-1
大正6年2月(1917)
420kb
会長講演 


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