■ 出生
安政元年閏七月十二日江戸蠣殻町にて出生、旧姫路藩士古市孝の長男、初め兵庫郎、次に造次と称す、後ち現名に改む。
■ 学歴及閲歴
明治二年一月仏学修行の為め開成所に入学、三年十月貢進生として大学南校に入学、八年七月文部省により学術研究の為め仏国へ留学を命ぜらる、同年九月巴里エコール、モンジュに入り、九年七月エコール、サントラルに入学、十二年八月卒業、エンジニュール、デ、アール、エ、マニフアクチュールの学位受領、次で巴里理科大学に入り、十三年七月、リサンシエ、エス、シヤンスの学位を得、同年十月帰朝、直ちに土木局雇となり、十四年十月文部省御用掛、東京大学理学部講師、十七年七月任内務三等技師、十九年五月任帝国大学工科大学教授、補工科大学長、兼内務二等技師、二十一年五月工学博士学位受領、同年十一月山縣内相随行欧州出張、二十三年六月補内務省土木局長、兼任工科大学教授、同年九月貴族院議員に勅撰せらる、二十七年六月任内務省土木技監、二十九年二月兼補土木局長、三十年八月陞叙高等官一等(教授)、三十一年七月依頼免本官並兼官、同十一月任逓信次官、三十三年十月依願免本官、三十六年三月東京帝国大学名誉教授の名称を授けらる、同三月鉄道作業局長官、同十二月京釜鉄道株式会社総裁被仰付、三十九年六月任統監府鉄道管理局長官、四十六年六月依願免官、爾後二三会社の重役若しくば顧問たり、大正六年十月財団法人理化学研究所長を委嘱せられ、八年帝国学士院の建議に依つて創設せられたる学術研究会義第一回総会に於て同会議会長に選挙せらる、十三年一月枢密顧問官に信任せられ現在に及ぶ、斯間帝国学士院第二部長、港湾調査会委員、震災予防調査会委員、臨時議員建築局顧問、其他幾多の公職に就任、今猶引続前記の公職に在り。昭和四年十、十一月於東京開催の万国工業会議及万国動力会議会長として選挙せられ其の任を全ふす、猶万国工業会議開会に当り米国土木工学会より其名誉会員に推薦せられ、日本工業倶楽部に於て同学会代表会員五十名参列の上同学会副会長ジュウエツト博士より同推薦状の交付式を行はれたり。
■ 専門
■ 学位
工学博士・授与日付・明治二十一年五月七日・明治二十七年勅令第十三号学位令第三条に依る。
■ 業績
(1)明治二十一年私立工手学校設立者の一人にして、同三十四年六月以降同校管理長の任に就き、学制の改革と共に新築成り現今の工学院(在淀橋角筈)となる。
(2)信濃川改修、東京湾築港計画、横浜、大阪、神戸の築港工事顧問、韓国鉄道工事等主要なるものにして、猶教育及学事上の功績は更に偉大なり。
本略歴は『大日本博士録 第五巻 工学博士之部』(井関九郎著、発展社発行、昭和5年)に掲載されている事項を、旧漢字を新漢字に改めて引用した。 昭和9年1月28日薨去
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