16.徳島市内の水害 もどる
 111号と112号の2枚の写真は、吉野川下流デルタに於ける徳島市内の水害写真である。しかし、残念ながら撮影年月日や水害原因等は写真裏等に記述されていない。  111号は、写真内に「トミタ大麻彦神社境内ニテ施行」と写し込まれ、112号も同様に「富田ホリブチ南側」と有る。前者の大麻彦神社は、大麻比古神社(一名、弥吉明神)と呼ばれて徳島市明神6丁目1−7に現存し、JR牟岐線東側に位置する。かかる地は徳島市南部で眉山東側の吉野川右派新町川と御座船入江側に挟まれた低平な三角州上で、徳島市内の中でも市街化が遅れた地域の一つである。例えば、1927(昭和2)年作成の徳島市街図によれば、昭和初期にあっても現JR牟岐線の東側は全て水田である。
 後者の「ホリブチ」は当該する地名が現存していないため、正確な場所の特定が出来ないが、写真左右に家屋が連続しているので、比較的下屋が密集した地域と考えられる。しかも、写真右側の家屋は板壁造りであるから、これは一般家屋とは考え難く、寧ろ藍倉等の倉庫、又は事務所と推察される。一方、新町川の別称は富田川で、富田川と富田ホリブチは語呂が合う。そして、富田町は新町川右岸、即ち南側地区の町名である。とするならば、撮影場所は、新町川河口津田港からもたらされる物資の徳島市内の集積場所、つまり新町川右側の冨田河岸である可能性が高い。
 これら2枚の写真で特徴的なことは、破壊的な水害形態を表現していることである。111号は神社本殿前の撮影と考えられ、神社本殿右側の1階窓は抜けて開放状態となって、浸水した布状のものが窓枠にまとわりつき、また左後方には樹根ごと立木が横倒しとなっている。他方、112号では、左側藁葺き家屋が倒壊し、右側家屋の1階下外板壁が完全に剥離している。つまり、2枚の写真が表現する水害は、以上の被災状況から判断すると、徳島市冨田地点で1〜2mの水位を伴う激流が引き起こしたものであったと考えられるのである。なお111号では、水位が子供の膝下である。従って、かかる写真は、地表から30cm程度に減水後、撮影したことが伺える。更に2艘の小舟には住民が分乗し、なかに半纏を纏った人物が数名写っているが、彼等は船業を生業とする人達と推察され、水害に遭遇して人命救助等を行った後、神社前で撮影に応じたものと考える。
 さて、明治期に於ける吉野川の水害史を紐解くと、1888(明治21)年、1890(明治23)年、1897(明治30)年、1899(明治32)年に規模の大きな洪水が発生している。 各年の破堤地点は、第十堰より上流左岸の西条知恵島や同左岸の西覚円、牛ノ島堤等で、各氾濫域は中流部善入島から右岸側の鴨島、石井町、或いは左岸側旧吉野川筋であった。ところが、「徳島市史」や「徳島県史」等では、各年の洪水に係わる徳島市外の被災の記録が皆無である。これを考えるに、各年の吉野川洪水は主に第十堰の上流右岸側に氾濫して遊水した結果、下流右岸の徳島市外への洪水直撃が回避され、徳島市外では記録に残るような被災がなかったと見るのが適当である。仮に、冨田地点で家屋や立木を倒壊せしめたのが、つまり2枚の写真の水害原因が吉野川洪水であったとすれば、少なくとも吉野川右派川新町川を激流が通過して、冨田地区の上流側に相当する徳島市街地は更に悲惨な状況と化したはずであって、市史や県史等でこれを記載漏れするとは考えられない。従って、2枚の写真が意味する水害は、河川洪水以外にその原因が求められる。
 2枚の写真が表現する水害は、1892(明治25)年に発生した高潮災害である。徳島市冨田地区では、これ以外に家屋倒壊を伴うような被災記録が皆無だからである。7月23日、台風起源の高潮が発生し、徳島市内では死者311名、全壊家屋2,635戸、流失家屋644戸、半壊2,559戸が記録され、田畑36,242反は海水で浸水し、57kmが破堤した。高潮は、主に新町川河口の津田浦から遡上したと考えられ、この結果、市内の8割が浸水するという大水害を惹起したのである。そして、明治期に於ける徳島市の水害被災記録がほとんど残っていないなかにあって、この2枚の写真こそが、徳島市内のかかる大水害の歴史を実証する役割を果たすことになったのである。
 徳島の港湾施設は、1892(明治25)年の高潮災害に遭遇して壊滅的な被害を受けたと考えられ、翌年、大阪商船は船着場を別宮川右岸の古川港から助任川の福島港に移転した。その後、徳島市が1898(明治31)年、新町川の浚渫を開始して以降、1900(明治33)年に新町川左岸の辰巳港、1902(明治35)年には辰巳港の対岸に冨田港が各々開設された。1892年の高潮災害を契機にして、新町川河口の津田港、別宮川右岸の古川港が衰退していく一方で、徳島の玄関口は河口から徳島市内の河川港へと転移していったのである。
(岩屋 隆夫)


≪参考文献≫
『徳島市史第3巻』『徳島県史第5巻』『吉野川』『阿波の川』
16−1:富田ホリブチ南側
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16−2:トミタ大麻彦神社境内ニテ施行
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