足尾銅山は慶長15年(1610)に発見され、芝・上野の徳川家の廟の築造また江戸城の増築の時にその屋根瓦に使用された。近世におけるその盛況のピークは貞享年間(1684〜87)であったが、オランダに輸出した国産銅のうち、その5分の1は足尾銅山のものであったという。
近世後期から不振をかこっていた足尾銅山の経営が、維新後、古河市兵衛の手にわたったのは明治9年(1876)である。この経営が軌道にのったのは、14年、新たに豊富な鉱脈(直利)が発見されてからである。これ以降、産銅量は急速に増加し、18年の産銅量は全国の39%を占めるに至った。そして精煉工場の新設(足尾)、鎔銅所の建設(東京:本所)が行われた。また19年には蒸気動力ポンプ、23年には間藤に水力発電所が設置された。この水力発電は、鉱業用としてはわが国で最も古いものである。運搬施設としては23年に細尾峠で鉄索の運転開始、29年には日光駅と細尾の間で軽便馬車鉄道が開設された。また同年、東京の本所鋼銅所内に伸銅工場が建設された。
銅山経営が順調に発展していくなかで、公害の原点といわれる足尾鉱毒問題が発生した。鉱毒の影響が下流農民に現れ始めたのは明治18年から20年といわれるが、明治21、22年の洪水によって被害が認識されるようになった。そして翌23年の大洪水によって、一挙に被害が顕在化したのである。群馬県の待矢場両堰水利土功会では鉱毒調査委員により、栃木県では県独自の被害調査が進められた。
また農商務省によっても調査が進められた。下流農民からは鉱業停止が主張され、さらに第二回帝国議会では、明治24年12月18日田中正造により取り上げられた。この時の被害では古河との示談が進められ、粉鉱採集器の設置と示談金により収まっていったが、明治29年の安政以来という大洪水によって鉱毒問題は一挙に拡大していった。この後、被害地住民の鉱毒反対運動の組織化が進み、群馬県邑楽郡渡瀬村の雲龍寺に「栃木群馬鉱毒事務所」が設置されて、鉱業停止を求める活発な活動が展開されたのである。
群馬県会では鉱山の停止建議、栃木県会では予防・除害建議が行われた。中央政府でも榎本武揚農商務相の鉱毒地視察、農商務省5名の「鉱毒特別調査委員」の任命が行われたが、明治30年3月、被害農民の二度にわたる東京押出し(大挙上京請願運動)もあり、内閣直属として足尾銅山鉱毒事件調査委員会(第一次鉱毒調査会)が設置されたのである。古市公威は委員として、この委員会に参画した。
第一次鉱毒調査会では鉱業を停止するかどうかの議論が行われたが、停止は行わず古河によって予防工事を行うことに決定した。予防工事命令は37項目に及び、この命令書に違反する場合は直ちに鉱業停止というものであった。この工事には延人員60万人、費用100万円を要したというが、明治30年、鉱山監督署の竣工認可を受けた。
だが翌年には予防工事命令によってできた沈殿池が洪水により破壊し、被害農民による3回目の押出しとなった。さらに33年2月13日には、警官隊と大規模に衝突したことで川俣事件として著名な第4回押出しがあり、その主導者は起訴された。また翌34年12月10日、田中正造の天皇直訴、学生達の被害地視察などの動きがあり、全国的な社会問題へと発展していったのである。
写真は、明治25年(1890)頃の間藤水力発電所、鉄索道、精錬工場を写したものであろう。(松浦 茂樹)
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15−1:工場(建物)
15−2:機械室
15−3:工場・煙突・鉱山
15−4:索道
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