12.太田切(おおたぎり)橋 もどる
1.三州街道と太田切橋
伊那谷を通る街道は古来から天竜川西岸にあった。旧幕時代までは中馬、馬荷による輸送であったので道幅狭く、屈曲・急坂で、川は渡舟で渡っていた1)。
 1877(明治10)年に二等県道伊那街道となずけられ、第一次の改修が始まった。
 1887(明治20)年には仮定県道三州街道となって第二次の改修が行われ、1894(明治27)年5月19日にその開通式が行われている2)。
 1889(明治22)年に地元から提出された太田切川、中田切、与田切三川の架橋陳情書では「激流、暴河ナルニ現在姑息ノ仮橋ナルガ故ニ毎歳スクナキモ3・4回、多キハ十余回、出水ノ為落橋シ」とある。
 第一次の改修によって太田切川にも橋が架けられたとは言え、橋長はせいぜい20m、幅員は2〜3mで、ありようは陳情書のとおりであったのであろう。
 1839(明治25)年7月に完成し、12月9日取り付け道路の竣功を待って開通式をしたのが写真の橋で、橋長113m、幅員4.7m 木鉄混合下路ハウトラス橋である。
 太田切橋は1989(明治31)年に流失し、1900(明治33)年と1915(大正4)年に何れも木造トラスで再架されたが、1924(大正13)年に鉄筋コンクリート桁橋となり、1938(昭和13)年には幅員5.5mの鉄筋コンクリートゲルバー桁となった。これが1979(昭和54)年には車道幅員7.5mと両側に2.5mの歩道を持つ近代橋に架け替えられている3)。

2.トラス橋
 橋の世界で明治になって外国から導入された新技術は、材料では鉄、構造ではトラスといってよいであろう。日本最初のトラス橋は吉田橋(1869年 錬鉄 横浜)であるが、後年、特に道路橋では工費から木造(木鉄混合)トラス橋が多用された。トラス橋は桁橋と異なり、比較的短い部材で長い支間長の橋を架けることが出来る。このことは「交通頻繁ノ為、昔日架ス能ハザリシ地勢ニ架橋ヲ要シ、其他或舟揖航行ノ為メ或洪水予防ノ為」に有効であった4)。さらに下部工の数の減少は、その洗掘=橋の流失防止に有効であった。
 橋梁工事の最大の問題は下部工・基礎工の施工である。機械力が無く、木杭しか使えなかった往時では、海に近い沖積地では木杭の打ち込みが可能であったが、上流部になるほど巨石・転石の川床となり木杭では打ち込みが不可能となる。たとえば天竜川中流部では竹製蛇籠で橋脚基礎とした例もある。
 太田切川は中央アルプスの標高2931mの宝剣岳山頂よりわずか20kmの距離で標高550mの天竜川に流れ入る。このために川床は写真に見るように、巨石、転石累々である。太田切橋はおそらく人力により転石を取り除き、簡単な締め切りで直接基礎を施工しその上に石積み橋脚を施工したものであろう。トラス橋は、こうした高価でしかも洗掘に不安が残る橋脚の数を減少することも出切る

3.只野成重
只野成重は1890(明治23年)に帝国大学工科大学を卒業した工学士である。したがって太田切橋は彼が卒業して満3年目に竣功したことになる。
 1894(明治26)年に『橋梁論』を著した岡田竹五郎は只野の大学同級生である。
(藤井 郁夫)

≪参考文献≫
1) 宮田村誌刊行会『宮田村誌 上巻』800頁 昭和57年5月31日
2) 駒ヶ根市誌刊行会『駒ヶ根市誌 現代編 上巻』1163頁
   昭和54年9月1日
3) 藤井郁夫『橋梁史年表 改定版』海洋架橋調査会1999年
4) 岡田竹五郎『橋梁論』序文 工談会 明治26年7月
12−1:長野県三州街道之内 上伊那郡太田切橋真影
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