11.綾戸(あやど)橋 もどる
1.解説
 写真下部中央に下記の記載がある。―;Ayado−Bashi;−−;Gunba−Ken;―右端に下記の記載がある。 F.Nozawa,Enginner(何れも手書き)
 Gunba−Kenを群馬県と理解するとこの橋は利根川上流の沼田市南端から子持村、赤城村北端にかけての綾戸峡谷に架かる橋と推定される。
図―1に示した視点を置くと、綾戸の隧道を含め、写真―11)と同じ景観であり、綾戸峡谷であることがわかる。
野沢房敬は1892(明治25)年頃約1年半の間群馬県に勤務して、多くの橋を架設している2)。図―2からもこの時期この場所に橋が架けられていたことがわかる。  以上からこの橋は下記の橋と評定する3)。 
 綾戸橋 1893(明治26)年5月竣功 橋長127m 幅員4.2m

2.清水新道4)
 群馬県の前橋と沼田を結ぶ街道、すなわち現・国道17号は真田街道、清水新道、あるいは三国脇往還とも呼ばれていた。
この街道のうち、渋川と沼田間は利根川を挟んで東側と西側の二つの街道があった。東側ルートは参勤交代道路であったが、曲折・上下が多い。
これに対して、西側ルートは、ほとんどの区間が平坦であるが、沼田市南端と子持村北端の間は子持山塊が利根川に迫り、往時はこの間を「七曲がり十八坂」と称する山越えをしなければならなかった。この不便を解消すべく1846(弘化3)年に僧江舟が主導して利根川沿いに幅・高さ各2尺(0.6m)のトンネルを穿ち綾戸の穴道と呼ばれた。1863(文久3)年これを拡幅して、人馬が通れる隧道となった。1881(明治14)年に内務省が起工した清水新道の工事に際して、この付近は隧道を避けて、1885(明治18)年に図―2に示すようなルートとなり、利根川を棚下橋と綾戸橋(橋長127m幅員5.4木橋)とで渡った5)。1901(明治34)年に綾戸綾桜の両トンネルを含む西岸沿いの新道が完成して、綾戸橋ルートは廃道となった。
(図―3)
この西岸沿いの道路は国道17号として1966(昭和41)年大改修がなされている6)。

3.綾戸橋
1893(明治26)年に竣功した綾戸橋は写真から、多径間の木鉄混合上路トラス橋と推定できる。立派な親柱と高欄付きの橋梁である。
 また、写真を見ると取り付け道路の石積みに下層と上層の2段が認められる。
おそらく、再架したこの橋の架設時に路面標高を高くしたのであろう。
 綾戸橋地点は利根川の屈曲部で寄州がある。このために木杭基礎が用いられているし、それだからこそ架橋地点として選ばれたのであろうし、さらにいえばこのルートが成立したのであろう。この綾戸橋は群馬県統計書などによると、1896(明治29)年の大洪水にも耐え得たようである7)。
 その後、西岸沿いの綾戸・綾桜の両トンネルには馬車鉄道が。1918(大正7)年からは電車も通るようになり8)、より下流に架設された(図―3)。
近くは1953(昭和28)年にも架け替えられ、1963(昭和38)年には間橋という名で何れも木造吊橋が架けられている。現・綾戸橋は1980(昭和55)年1月に位置を更に約200m下流に移して架けられた橋長80.5m幅員9.4mPCπ型ラーメン橋である10)。

4.野沢房敬
 野沢房敬は1888(明治21)年に帝国大学工科大学を卒業した工学士で、滋賀県勤務を経て、群馬県で約一年半の勤務の後、神戸の山陽鉄道に、そして九州鉄道に勤務している。
(藤井 郁夫)

≪参考文献≫
1) 子持村『子持村誌(上巻)』1038頁昭和62年3月31日
2) 野沢房敬『木橋図譜(第二輯)』工学書院
3) 群馬県『群馬県統計書 明治27年』49丁
4) 沼田町『沼田町史』795頁 昭和27年8月25日
5) 群馬県『群馬県統計書 明治22年』55丁 明治25年3月20日
6) 関東地方建設局高崎工事事務所『高崎工事50年史』197頁
   昭和59年12月
7) 群馬県『群馬県統計書 明治34年』76頁
8) 沼田市『沼田市史 別巻1』85頁 平成8年3月31日
9) 角田恵重『子持村史』431頁 昭和43年12月15日
10) 群馬県道路建設課『ぐんまの橋1 100選』69頁 平成7年8月
11−1:綾戸渓谷に架かる橋
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