10.御幸(みゆき)橋 もどる
1.御幸橋
 写真は滋賀県五個荘町と愛知川町との境を流れる愛知川に架けられた中山道の御幸橋である。この橋は1890年に着工し、1891(明治24)年10月に竣功した。その要目は次のとおりである。
 橋長233m(765ft)、幅員3.9m(13尺)木鉄混合下路ハウトラス橋、径間長21.8m(12間)、10連、設計活荷重247kg/m2(501b/1平方尺)、橋脚は煉瓦及び切り石積み。設計 野沢房敬工学士、現場 河原技手、施工片岡喜八郎(大津市)、工費 約15,300円。
 このトラス橋は1891(明治24)年10月24日の開通式当日に南側から第三連目のトラスが落橋し死者3名、重軽傷者200余の惨事となった。当日は知事などが出席した盛大な開通式を観るべく、数万の人が集まったといわれる。式終わり橋の通行が開始されると、その群集が押し寄せたために、橋途中で通行を制限すると、第三連目の径間に群集が集中する結果となり落橋した。
 関係の愛知、神橋両郡の町村長などはただちに参集して負傷者の援護・あるいは義援金の募集を行っている。

2.御幸橋の経緯
 滋賀県内の中山道はかつての国道14号であり、そして現・国道8号である。
 東海道の草津宿で分かれて湖東の地を北へ約6里・25km、それは北国街道との分岐点である鳥井本の宿までの半道付近となるが、中山道は愛知川を渡る。ここは南の瀬戸内型気候と雪の日本海型気候との境界でもある。
1)大勢の旅人が渡渉、せいぜい蓮台で広い河床の愛知川を越えるのは「足痛く」如何にも不便であったのであろう。1806(文化3)年の絵地図には幅1.5m(5尺)の仮橋が描かれている。
2)彦根藩の許しを得て、1831(天保2)年9月27日に、総延長124mで内、南橋の橋長が29m(16間)、中橋と北橋がそれぞれ47m(26間)、幅1.5m(5尺)板橋が地域の有志によって架けられた。しかもこの愛知川橋は通行料を取らない「無賃橋」で、その維持費は地域から別に募集した。愛知川橋近郷、特に南岸の五箇庄町は、いわゆる「近江商人」の地でありその中心地でもある。こうした資質がこの「無賃橋」を生んだのであろうか。
皇女和宮は1862(文久2)年にこの橋を渡って下向されたのであろう。
3)1878(明治11)年秋に明治天皇の御巡幸のために橋長218mの馬車の通る板橋が架けられた。この橋を地域の人々が払い下げをうけ、橋名も「御幸橋」と改めた。この橋は架けたその年に流失、明治13年に再架(橋長229m幅員4.5m)、翌14年流失、そして1882(明治15)年に再架された。
4)1891(明治24)年に竣功した橋が、1.で述べた表記の橋である。
5)1893(明治26)年7月18日に同じ形式で修復された御幸橋の渡り初め式が行われた。
 橋長233m(128間)、幅員12尺(3.6m)、木鉄混合下路ハウトラス橋、径間21.8m(12間)、10連、設計活荷重454kg/m2(400貫/面坪)、橋脚は煉瓦及び切り石積み。設計 滋賀県技手 高木秀平、工費 約12278円
6)1926(大正15)年9月25日に、1898年に架けられ80年間以上も使われた橋に替わる、新しい橋の渡り初めが四万人の人出と、飛行第三連隊の祝賀飛行などの下で行われた。
 今度の橋は橋長233m(765ft)、幅員6.1(20ft)、プレートガーダー、桁長23.24m(76ft3in)、10連、設計活荷重7875kg(2100貫)自動車、12トン転圧機。桁製作は矢野組工場(大阪市此花区大関町)、架設は杉丸太製の二又による。工費175718円であった。
 この架け替えにあたって旧橋の煉瓦切り石積みの橋台と橋脚は強度的にも充分と確認され、明治29年の既往最大洪水にたいしても旧橋が被害を受けることもなく、桁下高さなどが十分であることがわかったので、この旧橋の下部工が再用された。
7)1961年に、老朽化した1926年に架けられた旧橋の下流側に、国道の新橋が竣功した。
 新国道橋は、橋長234.6m、幅員8m、プレートガーダー。上部工工事は汽車製造(株)である。1969年には橋の上流側に幅員1.5mの歩道橋が設置された。
(藤井 郁夫)

参考文献
 1.『近江愛智郡誌第二巻』弘文堂書店昭和56年9月28日(覆刊)
 2.「愛知川御幸橋の渡初式及落橋の景況」
   日出新聞明治24年10月27日
 3.滋賀県土木部『滋賀県土木部百年年表』昭和48年1月1日
 4.小原光信「御幸橋の改築工事に就て」道路の改良8巻11号
   道路改良会大正15年11月1日
 5.滋賀国道工事事務所『滋賀国道の歩み』
10−1:滋賀県愛知川に架かる橋
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10−2:滋賀県愛知川に架かる橋
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