8.函館創設水道完成 もどる
 函館はその地形上天然の良港であることから,近代的な手法による北海道の開拓が本格化する以前から発展してきた。1859(安政6)年には前年締結された日米修好通商条約により,横浜,長崎とともに開港。函館は西欧文化の受け入れ口として急速に発展した。
 しかし,当時の函館は水の便が悪く日常の飲料水も不足がちであった。さらに津軽海峡に突き出た地形であるため年中風が強く,ひとたび火災が発生するとたちまち大火となり,多くの犠牲者を出してきた。加えて,1886(明治19)年に発生したコレラの猛威により800名以上が死亡するなど水の便の悪さが都市発展のネックとなった。
 このことから水道建設の要望が市民の間から高まり,幾多の曲折を経て,1888(明治21)年に水道建設事業が着手された。この事業は,水源を亀田川本流に求め,函館山山ろくの元町配水池まで英国製鋳鉄管をおよそ10kmに渡って敷設。横浜に次ぐ日本で2番目の近代水道として翌1889(明治22)年に完成した。当初の水道計画及び監督を行ったのは,後に鉄道庁総裁となった平井晴二郎であり,日本人の手による最初の水道建設事業として記録されている。
 函館はその後も人口の増加が著しく,また開発が進む函館市西部地区の高台への給水を確保するために1894(明治27)年から翌年にかけて第1次拡張事業が行われた。
 これらの施設は現存しており,函館市西部地区の水道施設として供用され,一世紀を越えた現在でも市民生活を支えている。これらの点が評価され土木学会選奨土木遺産に選定(2001年度)されている。
 写真は竣工当時の配水池を撮影したものである。 当初無蓋であった配水池は,その後鉄筋コンクリート造フラットスラブの覆蓋が設けられ植生されている。現在,配水場は一般に開放され,歴史的な建造物が多く残る函館市西部地区に所在することから,多くの観光客が訪れている。
(今 尚之)
8−1:高区水源及沈殿池
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8−2:低区沈殿池及一号二号結合井
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8−3:低区配水池及三号結合井
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8−4:高区配水池
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