第2次長崎港港湾改修事業
江戸時代わが国の唯一の外国貿易港であった長崎港は、1885(安政5年)の開港以降十分な港の維持がなされなかったために、市街地を貫流する中島川からの流出土砂のため、長崎港に土砂が堆積し、港湾機能に支障を来してきた。そこで、1884年から1889年(明治17年から22年)にかけて第1次長崎港港湾改修事業を行い、中島川を出島の背後に変流した。さらに、明治20年代末になると、市北部の浦上川からの土砂の堆積が進み、湾奥部から浦上川河口部にかけて、干潟が現れるようになってきた。そこで、1895年(明治28年)10月には、市参事会員、市会議員、貿易商、隣港5村長により「長崎港湾改良及び浚渫期成同盟会」が結成され、長崎港の改良事業の必要性を各所に働きかけた。一方、九州を西進していた九州鉄道は、1897年(明治30年)には、長崎(現浦上)と長与間を開通させたが、さらに、長崎市街地に鉄道を延長させ、そこに長崎駅を造ることを考えた。しかし、狭隘な地形の長崎では土地が無く、用地取得のために長崎港の埋立を長崎県に申請した。
このような背景のもとで、長崎市会は、港湾機能の整備、九州鉄道長崎駅用地の確保、さらに浚渫土砂による住宅用地の造成のために、長崎港湾改良計画を決議した。
第2次港湾改修事業の工事の起工式が、1897年(明治30年)10月23日に大黒町の旧台場跡陸軍用地(現JR長崎駅付近)で盛大に行われた。第2次長崎港港湾改修事業による埋め立ては、出島前面、長崎市街地の北部や沿岸部、さらに湾奥部の広大な埋め立てを行うものであった。この工事の結果、出島前面が埋め立てられ、江戸時代の長崎の象徴であった「出島」が完全に内陸化した。この事業は当初5年計画であったが、事業は難航し、軟弱地盤のために埋め立て工事は計画より2年遅れ、1904年(明治37年)に竣工した。同年11月16日に、出島の埋め立て地で落成式が行われた。第2次港湾改修事業による埋立が終わると、翌1905年(明治38年)4月5日には、九州鉄道の浦上・長崎間が開通し、現在の長崎駅の場所に長崎駅の仮駅舎が建設された。
この事業は、浚渫、埋築、埋築の護岸及び街区、運河、橋梁、波止、堰堤、堰堤修理から成っており、埋め立ての総面積は約117,000坪である。内訳は、出島付近、22,486坪、海岸通、16,699坪、浦上、56,262坪、稲佐、22,195坪である。これらの埋め立て地は、道路、溝りょう及び荷揚場、九州鉄道用地、住宅のための市有地として使われた。事業の担当技術者は主任工師南部常次郎、技師星野一太郎であった。
第2次長崎港港湾改修事業により、湾奥部、市街地付近及び出島前面の景観は一変した。この事業による埋め立てが、現在の長崎市の骨格になっている。この時まで、長崎市は江戸期から旧市街地を中心に発展してきたが、この造成工事により市街地と北部の浦上地区がつながり、その後、市域は北部に拡大するようになる。
長崎に関する11枚の写真は、この第2次長崎港港湾改修事業の工事記録を撮影した写真である。これらの写真は、明治30年代の長崎市の都市形成の核となった、広大な埋立工事を記録した貴重な写真である。それぞれの写真の裏には写真の題名と解説が記載されており、写真のキャプションは当時の写真題名を使用した。写真番号は、長崎港の南部から北部へかけての工事現場に対応している。
「出島埋立」(写真7-1)は、出島前面が埋め立てられた直後の写真である。江戸時代中国貿易の荷物を保管した新地蔵の東側で海に注いでいた銅座川は、工事後は埋め立て地の前面を迂回し、長崎港に注ぐことになる。埋め立地と銅座川には1904年(明治37年)出師橋が架設される。さらに、1924年(大正13年)には、この埋め立て地の先端に日華連絡船のための出島岸壁が建設される。
「五島町裏埋立」(写真7-2)は、新しい浦上街道(現在の国道206号線)の用地のために、現在の五島町付近の海岸線の埋め立てを行っている現場である。写真右上の立山は地形を判らなくするために、写真に修正が加えられている。長崎の全ての写真にはこのような修正が加えられている。
「十間運河東西埋立」(写真7-3)は、現在のJR駅ヤードから湾奥を撮影した写真である。写真中央に運河があるが、運河から下が九州鉄道用地、上側が将来住宅地になる。この写真から、広大な埋め立て工事であることが分かる。
「新地沖石垣」(写真7-4)の写真は、写真−1の手前に写されている銅座川の中から、出島前面の埋め立て地を撮影した写真である。写真中央に現在でも出島の中に残されている出島神学校が撮影されている。この銅座川は、1955年(昭和30年)の区画整理事業で埋め立てられた。
「大黒町埋立」(写真7-5)は、九州鉄道の長崎駅が建設される場所(現長崎駅付近)を撮影した写真である。写真中央が、南部の長崎湾口である。写真右側はまだ埋め立てが終わっていない。
「平戸小屋埋立」(写真7-6)は、三菱重工がある市街地の対岸である。護岸の基礎のコンクリートブロックを製作している現場である。写真の対岸は、東山手・大浦・南山手の旧外国人居留地である。
「岩原橋」(写真7-7)は、現在の長崎駅近くの岩原川の護岸である。現在の長崎駅近の大黒町付近である。写真中央の煉瓦の下水口は現在でも見ることができる。
「十五間運河」(写真7-8)は、湾奥の運河の建設中の写真である。写真右には完成途中の護岸があり、右にはコンクリートブロックを海中に沈めるためのクレーン船が撮影されている。
「十間運河石垣」(写真7-9)は、現在の宝町交差点付近である。左側の橋脚は浦上街道(県道)の寿橋のものである。この一部は現在でも残されている。右側の運河は、戦災事業で埋め立てられ、現在国道206線と長崎電気軌道の線路となっている。
「金ノ手石垣」(写真7-10)は、現在の浦上川右岸の護岸である。この埋め立てにより、市街地と対岸近くになり、1905年(明治39年)には写真中央の船着き場付近に稲佐橋が仮設された。この船着き場は現在でも残されている。
「平戸小屋石垣」(写真7-11)は市街地の対岸と工事用の船を撮影したものである。長崎では1958年(安政5年)に開港され、外国人居留地が建設されると、外国人居留地や市街地の鳥瞰写真が数多く撮影され、販売されていた。しかし、第2次長崎港港湾改修事業が始まった直後、1899年(明治32年)7月に外国人居留地が廃止になり、同年8月に要塞地帯法が公布され、長崎市が要塞地区の中枢になった。このために、長崎市内の写真撮影は禁止され、それまで撮影されていた大判の一枚物の写真に代わって、要塞司令部検閲済みの絵はがきが販売されるようになった。
長崎市では、要塞地帯法以降第2次大戦終了まで市街地全域が軍事機密扱いとなったために、この時期の市街を撮影した大判の写真は残されていない。これらの写真は戦前期における長崎市の市街地のを撮影した最後の貴重な写真でもある。
(岡林 隆敏)
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7−1:出島埋立
7−2:五島町裏埋立
7−3:十間運河東西埋立
7−4:新地沖石垣
7−5:大里町埋立
7−6:平戸小屋埋立
7−7:岩原橋
7−8:十五間運河
7−9:十間運河石垣
7−10:金ノ手石垣
7−11:平戸小屋石垣
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