広島市街地が展開している広島平野の三角州は、主に戦国末期から戦前の昭和前期にかけて海面干拓によって造成された所が大きい。その基となる堆積土砂は、太田川から流出したものである。その干拓状況は図に示す。この中で「宇品港」は、明治年代に埋立で築かれた港湾である。竣功後の1900(明治33)年、高波により宇品港海岸の潮止堤防が決壊したが、掲載されている写真5枚はその決壊及び修復状況の写真である。堤内に侵入した氾濫水は、その東側の宇品新開に流れ込んでいった。
さて、宇品港は千田貞暁知事の尽力により広島県営として1884(明治17)年に着工、途中、高潮による大きな被害にあいながらも進められ、5年後の1889(明治22)年11月、竣功をみた。計画の基本は、オランダ人お雇い技師ムルデル(A.T.L.R.Mulder)によって策定された。千田知事の要請に基づき1881年、内務省はムルデルを現地に派遣し、調査・計画させたのである。ムルデル研究の第一人者である改発邦彦氏の調査によると、81年から84年にかけて、宇品築港に関する以下のようなムルデルによる3つの報告書が残されている(「A.T.L.R.Mulderの報告書」)建設省岡山河川工事事務所 1998年)。宇品築港にムルデルが深い関心を持っていたことが分かる。
1881年8月20日「広島県工業復命書 鎖堤 京橋川ヨリ宇品島マデ」
石井土木局長あて
1882年12月31日「広島県 京橋河ヨリ宇品島ヲ連結スル海堤ノ件復命」
石井土木局長あて
1884年5月4日「広島県築港ノ件」島土木局長あて
計画の最も重要なことは、太田川から流出される土砂が沿岸流により漂砂となって流れてくるのをいかに防止するかであった。この築港に合わせてムルデルは、その東方の地域の干拓も提言した。
築港工事で最も困難な潮止の工事は、人造石(長七たたき)を自ら工夫した服部長七に請負させた。人造石はマサ土(風化花崗岩)を石灰を7:3の割合で混ぜたもので、1873年に服部が発明し、高浜の服部新田、備前岡山の吉備開墾社の干拓堤防等に使用され成果を得ていた。宇品港もこの人造石が使用されたのである。なお1900年の高潮による決壊復旧工事の際にも、服部は招請されて復旧の意見を求められた。
宇品築港事業の予算は、当初8万7千円であった。その財源として、浅野旧広島藩主が旧藩士に与えようとした士族授産補助金3万円、士族授産金として国庫から貸下げられた資金から2万円の5万円を調達して準備した(その担保として築港埋立地をあてる)。しかし度々の災害またそれに伴う設計変更等により、最終的に事業費は30万円強と大きく膨れ上がった。この増大した事業費をまかなうため、海岸埋立地を宅地として売却し約11万5千円の資金を得たが大きく不足し、千田知事は、その確保のため東奔西走した。政府も放置しておくわけにもいかず、二回にわたって計五万九千円の補助を行った。その代償として政府は1889(明治22)年3月、知事に対し「宇品築港計画ノ粗漏ナリシ為更ニ国庫ノ補助ヲ仰クニ至リタルハ不付合ニ至リタルハ不都合ニ付罰俸年俸十二分ノ一ヲ科ス」との懲戒を科したのである。
千田知事は、竣功間もない1889年12月、竣功式を前にして新潟県知事に転任していった。県民に大きな負担をかけ、功名心に駆られ不急の土木工事を起こしたとの不評も一部から受けていた。しかし宇品港が脚光を浴びるのは、そう年月を要しなかった。1894、95(明治27、28)年の日清戦争、1904、05(明治37、38)年の日露戦争の際、大陸輸送の最前線となり、戦争の遂行に大きく貢献したのである。
宇品築港工事は県営で行われたが、工事に対する中央政府との関係はよく分からない。計画の基本は先述したように、内務省から派遣されたムルデルによって策定された。工事についても内務省の監督を受け、最終段階では内務省の直接的な指導が行われたのではないかと考えている。内務省は1886(明治19)年に土木監督署官制を制定し、全国を6区に分けて各区に監督署を置いた。当初、その一つが吉野川改修を主目的に徳島に置かれたが、吉野川改修は西覚円破堤で問題が起こり、翌1889年工事は中止となり、監督署は同年7月、広島に移転した。この移転の背景として、宇品築港工事の直接的指導があったのではないかと推定している。なお、1900(明治33)年の復旧工事にあたり、広島県は第六区(広島)監督署署長青木元五郎から助言を得ている。青木は1880(明治13年)、東京大学理学部土木科を卒業し、1896(明治29)年6月から第六区の署長となっていた。
(松浦 茂樹)
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6−1:宇品港
6−2:宇品港
6−3:宇品港
6−4:宇品港
6−5:宇品港
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