4.明治の木曽川改修 もどる
 明治29年(1896)の河川法成立に先立って、木曽川では明治20年から十ヶ年計画として本格的な改修事業に着手した。その目的は、洪水防禦、堤内の排水改良、舟運路の整備であったが、前二者が重要と位置付けられていた。計画の主たるものは、木曽川、長良川、揖斐川の完全分流、低水路の整備、木曽川、揖斐川河口での導水(流)堤の設置、木曽川と長良川の舟運の連絡のための閘門の設置等というものであった。
 この当時の河川事業は、河身に関する工事は国、築堤は地方庁で行う規定であったため、国、愛知・岐阜・三重の3県による事業として進められた。
 改修計画を策定したのは、オランダ人技術者デ・レーケである。デ・レーケは明治11年(1878)から毎年のように現地調査を行っていたが、明治17年(1884)、内務省から改修計画の策定を命じられた。その補助者に任命されたのが、わが国で近代教育を受けた2人の若い内務省技師、清水済(明治12年東京大学理学部卒)と佐伯敦崇(明治13年工部大学校卒)である。計画策定に対するこの2人とデ・レーケとの関係を考える時、興味深い次のような上申書が残っている。
 「当初の3川分流改修計画の義、漸く去る明治17年10月着手従事中、同18年4月工師帰国の為めに幾許か其結了を遅延いたし候得共、同人帰省の節済義御命に拠り出京、工師工面晤の上計画の義に付同人の意向を聞取、不在中とも事業上差支なき様取計帰垣候故、其れに基き勤勉従事昨18年11月に至り完結、伺済の上済・敦崇2名書類図面等携帯、同12年出京各図面工師へ閲覧せしめ候、然るに同人前きに授示せし、意見の幾分を変じ、遂に目論見変換の事に相成、右2名滞京補助仕日々相運居候処、工師淀・木曽2川へ出張を命ぜられ、亦た各2名も愛知・岐阜両県相互、木曽川筋水刎工事争論下調、其外測量事業増加等に拠り帰垣中の折柄、工師当初に出張諸所検分の末、又々前意見を変更し、就ては測量事業も随て増加仕候。」
 これによると、デ・レーケが明治18年(1885)の一時帰国の際、計画策定が遅れないよう清水・佐伯に指示し、それに基づいて彼らが作業を行った。デ・レーケの再来日直後、図面等を見せたが、デ・レーケの考えに変更があり、彼らは再び検討を行った。その後、デ・レーケは現地に来て指導を行ったが、彼の意見が再び変わったというのである。再測量が必要となったのいうのだから、かなりの修正があったと思われるが、この意見修正に対して清水・佐伯は「心意漸く再三意見変じ候は、彼れ知識の進歩すると地方の状況に通暁するとに因り前日の意向を転じ、癒々完全なる計画を為す可き同人の精神にこれ在る可しと推察候」と、デ・レーケが知識の進歩と地方の状況をさらに知ったために、一層の完全を目指したものだろうと推察している。しかし、彼らは、これ以上計画策定が遅延すると重大な支障が生じるので、「来る6月、7月頃には遅くも計画終結候様致度存念に有之候、然れ共既往の事実を回顧すれば向日とも工師に於て、又々意見を変し候趣も計り難しに付、速かに計画終結いたさせ候には、同人を当初の派出仰付られ当地に於て取扱候様御下命相成候」と述べ、デ・レーケの現地在勤を希望したのである。
 このように、デ・レーケの意見はたびたび変わったが、これは清水・佐伯も述べているように河川改修に対するデ・レーケの認識の深化が大きかったと考えられる。そしてそれは、母国のオランダからの知識、情報に基づく深化だと推察される。デ・レーケは明治18年4月、計画策定の最中に8ヶ月の休暇で一時帰国したが、彼は日本滞在の経験があるエリート技術者エッセルと母国で河川工事の視察を行っている。この時得た知識が、木曽川改修計画に反映されていったのだろう。
 さて低水路整備のために、ケレップ水制がほとんど全川にわたり用いられた。ケレップ水制は明治の初頭、オランダ人技術者によって日本に導入されたものである。また木曽川、揖斐川での海に突き出した導水底の設置は、河口部での土砂堆積を防止することにより伊勢湾と河川をつなぐ安定した舟運路の確保を目的としたものだろう。導水堤長は木曽川で2,600間、揖斐川で3,120間であった。当初は浚渫のみで対処する予定であったが、これのみでは不十分として導水堤が加わったのである。なお、堆積土砂とは、沿岸流、潮流で移動する土砂であった。さらに河道への土砂流出防止のために、山地での砂防工事も大々的に行われた。デ・レーケは水源での砂防工事の成果により洪水の最大流量が減じてくるとその効果を極めて高く評価している。
 ところで浚渫のためにオランダから購入されたのが、三十三坪(200)ホッパー付の自走式ポンプ船・木曽川丸であった。これ以前、明治3年(1870)、安治川浚渫のため大阪府が鉄製バケットラッダー浚渫船百坪掘ニ隻、明治12年、野蒜築港のため内務省が四十坪掘一隻をそれぞれオランダから購入していたが、木曽川丸はわが国初めてのポンプ船であった。このポンプ船は河口浚渫では活躍した。だが、土工全体に占めるその割合は極めて小さく、主として木造トロによる人力で行われた。
 工事は、桑名の派出所長となった佐伯敦崇の指導の下に行われた。佐伯は明治10年代の低水工事の時から木曽川に関わっていたが、明治27年、新たに名古屋に土木監督署が設置されたとき、その初代署長に任命された。だが、肺病にかかり明治29年から大阪土木監督署長沖野忠雄が兼務することとなった。佐伯はその才能を惜しまれながら明治31年(1898)、世を去った。なお計画策定に活躍したもう一人の日本技師・清水済は、明治24年8月、内務省土木局の初代の製図課長(初めての技術課長)となったが、明治26年8月、没した。木曽川改修工事の中で最大の課題である三川分流工事が竣工したのは、明治33年である。その竣工式は総理大臣山県有朋、内務大臣西郷従道の出席によって最大に行われた。すべての工事が竣工するのには、さらに12年要し大正元年(1912)のことである。なお明治30年からはすべて河川法の下での直轄施工に移されて行われた。
 木曽川改修工事は明治29年の旧河川法の中身にかなりの影響を与えた。それ以前、河身に関する工事は国、築堤は地方庁で行われていたが、工事は一体となって進めざるを得なかった。たとえば国で行う低水路の掘削土は、一方、築堤材料であった。また、河川敷、堤敷も国と県との共同買収で行っていた。これらの協議等に煩雑な手数を要し、多大な不便が生じていたのである。旧河川法は費用負担を明確にした上で、施行主体を一本化し、これらの不便を取り除く規定となっている。施行についてみると、オランダから新たに浚渫船を購入して進めたが、そのウェイトは小さかった。機械力を本格的に駆使するわが国初めての大規模工事は、明治29年に着工された淀川改修事業である。この開始にあたり、技師が欧米に派遣され、主にフランス、イギリス、ドイツから浚渫船、掘鑿機、機関車などが購入された。淀川改良工事を指導したのは沖野忠雄であるが、彼は明治22年9月から第四区(大阪)土木監督署巡視長(23年8月から署長)であり、名古屋に中部地方を管轄する新第四区土木監督署ができる明治27年10月まで、巡視長、署長として木曽川改修に関わっていた。淀川改修に対し、その背景に木曽川に経験があったのである。
 木曽川改修事業は、わが国近代河川事業の黎明期に大きな足跡を残した。
(松浦 茂樹)
4−1:導水堤
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4−2:導水堤
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4−3:木曽川丸(KISOGAWAMARU)
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4−4:導水堤
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