3.明治29年信濃川大洪水 もどる
 明治29年(1896)の信濃川大洪水は、大被害を出した破堤地点の名を採り「横田切れ」といわれている。ここでは、この大水害関連の写真27点を紹介する。
 掲載する写真は信濃川沿川17枚(含、横田地先2枚)、右支川・刈谷田川沿川3枚、阿賀野川沿川3枚、加治川沿川2枚、そして、横田切れによる大水害を被った西蒲原郡内2枚などである。これらは洪水の発生から21日から35日の間に撮影されたものである。その、撮影地点と撮影時期(出水後の日数)を図−1に示した。また、この大洪水の浸水地を図−2に示した。なお、撮影地点名は当時のままとし、キャプションで断りのない限り信濃川沿川のものである。
 各写真の下に記された金井弥一は、明治21年に新潟の新堀通で写真館を創業した人物である。彼が、その後、明治30年に南浜通に開館した本店の洋風建築(設計、中島泉次郎)は、金井文化財館として新潟市に現存している(別名、金井写真館として知られる)。なお、写真の下には本店の所在も見ることができる。図−1の作成によって、金井の撮影の動きを知ることが可能となった。
 以下、明治29年の信濃川大洪水の概要を記し、掲載された写真がどのような状況を映し出しているのかを知る手掛かりとしたい。

1.明治29年以前の信濃川
 越後平野が、大河津分水路の完成によって信濃川の洪水の恐怖から開放され始めたのは、大正11年(1922)の分水路通水以降のことである。それまでの越後平野は、信濃川下流部の低湿地帯であり(別名、蒲原平野とも呼ばれる)、縄文海進の終了後、信濃川を始め阿賀野川やその他河川の土砂供給によって形成されてきた平野であった。そして、一度、出水で破堤すれば、その濁流は平野内の耕地や居住域に侵入し、多くの被害を出してきた。
 大河津分水の計画は、江戸時代の享保年間に始まるが、江戸幕府はその実施を許可しなかった。それが、明治元年に発生した大水害を機に、越後平野の有志が明治幕府へ請願した結果、翌2年に分水工事が開始された。しかし、この工事は、分水路末にある第三期層の地滑り地帯を掘り抜けず、また、外国人技師らによって完成に疑問が投げかけられたことなどから、明治8年に中止となった。これが内務省の直轄事業として再開されるのは明治42年(1909)である。
 分水路工事の停止の間、越後平野では洪水による水害が発生した。その大きなものの最初が明治29年であり、30年、31年も引き続き大洪水となった。

2.明治29年大洪水の概況1)2)
 明治29年は天候が不順な年で、梅雨期に霖雨が続き、7月上旬から連日連夜、堤防の嵩上げや補強が行われていた。しかし、7月8日の加治川や阿賀野川左支川・早出川で破堤したのを皮切りに、翌9日には栗ノ木川が越流氾濫を始めたため、中蒲原郡沼垂町(現、新潟市)一帯では床上浸水46戸の被害を出した。その後、小康状態を経て、19,20日の両日から豪雨が続き、21日に新潟測候所は信濃川からの浸水は免れないことを発表した。この頃、信濃川の小千谷地点では水位が5mを超え、また、中魚沼郡宮野原村(現、津南町)では信州一帯の豪雨が集まり、10m余の水位を記録した。信濃川沿川では厳戒態勢がとられていたが、測候所の発表当日、中蒲原郡大郷村(現、白根市.図−1赤渋の写真あり)で破堤した。その後、古志郡長岡町(現長岡市.図−1黒津,草生津の写真あり)、三島郡与板町(図−1信濃川と黒川の合流点左岸付近)などでも破堤が続いた。また、信濃川右支川の暴れ川である刈谷田川(図−1小沼,中條の写真あり)、五十嵐川でも数ヶ所で決壊した。翌22日には、この洪水で最大の被害を出す西蒲原郡横田村(現、分水町)で破堤した。ここから流れ出した洪水は西蒲原郡の家屋や耕地を押し流しながら西川に沿って進み(図−1新通,北場の写真参照)、約50km下流の平島村(新潟市)の国道を破壊して信濃川と合流した。新潟市でも22日夜には信濃川の水位が11尺8寸(3m50cm余)に達し、市内の8割が浸水したという。  26日付「新潟新聞」によると、一面湖沼のようになった横田村は、家屋24戸、小池村(現、燕市)で13戸が流失、他は水底にあってなお未詳と報じられた。
 与板市では原地区の20間を超える破堤で、1140余戸のうち800余戸が浸水、救助を要する貧民は7000名に達したという。
 長岡では長生橋が落ち(写真あり)、鉄橋・道路が寸断、電信も普通となった。そして、蒸気船が唯一の連絡手段となり、被害者は何日間も救助を待たねばならなかった。長岡で被害が大きかったのは草生津町(現、長岡市)中島地区であり、浸水が5尺から9尺にもおよび、泥をかぶった田畑は全滅、民家の浸水は床上3〜5尺におよんだ。  「新潟新聞」では古老の話などに基づいて、この年の洪水は水位で比較すると明治元年の洪水より3〜4尺高く、120年前の天明の洪水に次ぐものであるとし、天明以来の大洪水であると報じている。
 この他、洪水が発生した河川には、関川、保倉川、渋海川などもあり、県内各地の河川で出水し、破堤被害は県下全域におよんだ(被害の数値データは表−1参照)。被害が大きかったのは、信濃川沿川の西蒲原、南蒲原、中蒲原、三島、古志、北魚沼などの諸郡であり、なかでも中,西蒲原郡が最大であった。
 8月末には、最大の被害を出した横田地点の仮締切が報じられたが、9月8日には信濃川の再度の出水のため再び破堤した3)。また、10月14日には出水によって3度めの破堤に及び、横田村を始めとする西蒲原郡は再三泥水を冠した4)。このように、明治29年の洪水は100日以上の浸水を被らせる地域を生じさせたのである。

3.その後
 信濃川の治水対策は、明治初頭の大河津分水工事の中止後、堤防の嵩上げや補強などが繰り返されていたが、決定的な治水策とはならなかった。明治中期の越後平野における大洪水の発生は、こうした状況を打開し、大河津分水事業を再燃させる契機の一つとなった。そして、明治末期の内務省直轄事業としての分水事業が再開され、分水路の完成と、排水ポンプの整備などにより、越後平野の洪水抑止と、湿田から乾田化が達成された。そして、日本屈指の穀倉地帯へ変貌し、コシヒカリの名を全国に知らしめるのである。
 今回掲載された写真は、今やそこに住む人々でさえ忘れ去ろうとしている越後平野の不安定時代を、今に伝える稀少な映像資料である。また、締切方法や護岸など、明治中期の治水技術を散見できる貴重な資料でもある。
(知野 泰明)

≪参考文献≫
1)新潟県:『新潟県史』通史編7 近代2,pp.313〜320,1988.
2)新潟市:『新潟市史』通史編3 近代(上),pp.284〜286,1996.
3)黒崎町町史編さん近代部会:『黒崎町史』資料編3 近代,pp.498〜499,1994.
4)「新潟新聞」明治29年10月16日

3−1:信濃川左岸 西蒲原郡横田村(分水町)近辺の田畑荒蕪の状況(出水後21日)
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3−2:信濃川左岸 西蒲原郡横田村(分水町)地先の破堤と締切工事の状況(出水後21日)
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3−3:信濃川 西蒲原郡黒鳥村(黒崎町)大字北場地内における家屋破壊の惨状(出水後21日)
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3−4:刈田谷川右岸 南蒲原郡鬼木村(栄町)地先の刈谷田川での破堤と締切工事の状況(出水後23日)
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3−5:信濃川 西蒲原郡新通村(新潟市)の惨状(樹木に掛かるのは流された鳥籠(出水後21日)
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3−6:信濃川右岸 南蒲原郡信條村(中之島町) 大字西野地先の破堤による浸水状況(出水後23日)
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3−7:刈谷田川左岸 南蒲原郡三沼村(中之島町)大字赤沼地先における堤防締切工事の状況(出水後23日)
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3−8:刈谷田川左岸 南蒲原郡三沼村(中之島町)大字小沼地内における潰家の惨状(出水後23日)
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3−9:信濃川右岸 南蒲原郡中條村(中之島町)地内の破堤による浸水状況(出水後24日)
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3−10:信濃川右岸 南蒲原郡中通村(中之島町)大字品之木地先の破堤と締切工事の状況(出水後24日)
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3−11:信濃川右岸 古志郡黒條村大字黒津(長岡市)地先の破堤状況(出水後24日)
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3−12:信濃川長生橋 古志郡草生津町(長岡市)に架かる長生橋付近の破堤後の惨状(出水後25日)
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3−13:信濃川左岸 古志郡四箇村大字槙下(長岡市)地先の破堤状況(出水後25日)
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3−14:信濃川左岸 古志郡石津村大字釜ケ島(越路町)地先の破堤状況(出水後26日)
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3−15:信濃川 北魚沼郡小千谷町(小千谷市)の信濃川沿川家屋の破壊状況(出水後26日)
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3−16:信濃川 旭橋 北魚沼郡小千谷町から対岸ひ[くさかんむりに碑]生村(小千谷市)に架かる旭橋の落橋状況(出水後26日)
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3−17:信濃川左岸 三島郡中野島村大字中島(越路町)地内の破堤による浸水状況(出水後27日)
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3−18:信濃川左岸 三島郡高梨村(小千谷市)地先の破堤状況(出水後26日)
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3−19:信濃川長生橋付近 古志郡草生津町(長岡市)に架かる長生橋の流失状況(出水後25日)
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3−20:信濃川左岸 中蒲原郡大郷村大字赤渋(白根市)地先の堤防締切工事の状況(出水後30日)
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3−21:信濃川 新潟市大字関屋(新潟市)地先の破堤と締切工事の状況(出水後35日)
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3−22:信濃川左岸 南蒲原郡大島村(三条市)地先の破堤と締切工事の状況(出水後30日)
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3−23:阿賀野川筋 東蒲原郡津川町より対岸の揚川村に架かる橋梁流出跡の状況(出水後34日)
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3−24:阿賀野川沿岸 東蒲原郡三川村岩津地内県道破壊の状況(出水後34日)
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3−25:阿賀野川沿岸 北蒲原郡小島村地先破堤の状況・当時、水戸留工事施行中(出水後35日)
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3−26:加治川沿岸 北蒲原郡島塚村地先堤防破壊のため郷里一園が荒蕪と化した状況(出水後32日)
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3−27:加治川沿岸 北蒲原郡島塚村島瀕地先破堤の状況・当時、水戸留工事施行中(出水後32日)
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