2.富士川流域・山梨県下の水害 もどる
 右に掲げる2-1から2-12迄の12枚の写真は、山梨県下に於ける富士川流域の水害写真である。各写真の表装には甲府市樋口桃雲という写真館名が印刷されているが、残念ながら、撮影年月日は未記入である。12枚の写真を見ると、6枚が御勅使川右岸筋で、1枚が釜無川左岸堤の破堤後の水害写真である。そこで、この7枚の写真が示す破堤状況や水害形態を手掛かりに、明治年代の山梨県下に於ける水害史を調査したところ、一連の写真は1896(明治29)年の水害状況を撮影したものであった。
 1896(明治29)年の水害は、富士川流域の釜無川並びに同川右岸側支川群が出水して発生した。降雨は、9月4日から12日に至る間の台風起源の豪雨のもので、山梨県下では8日 102.4mm、11日 141.7mm等、総雨量 399.8mmが記録された。この水害の特徴は、御勅使川洪水が扇頂部右岸堤を横溢して破壊し、かかる氾濫水主流が南御勅使川(或いは小御勅使川と称する)筋の家屋や田畑等を破壊しながら流下して釜無川に合流し、これが釜無川左岸の竜王堤を直撃したことである。この結果、12日、竜王堤は10ヶ所延235間が破堤したのである。1896年水害は、明治期で唯一、釜無川本堤が決壊した水害で、この遠因が御勅使川の右岸堤破堤であった。12枚の写真のなかで2-1から2-7迄の7枚の写真は、こうした特徴的な水害のなかで、御勅使川洪水に焦点を併せ、当時の水害状況を明確に再現している。
 2-1の写真は、御勅使川扇頂部右岸側の旧源村(現白根町築山下)に於いて御勅使川を撮影したもので、御勅使川河道は一面、砂礫の河原と化し、そのなかで数名の技師と人夫が「石積出し」(写真裏書きは一番から六、七番に至る堤防と云う)の被災跡の平面形状等を竿と縄を用い測定している様子が伺える。2-2は、同村内の御勅使川右岸側の水害防備林の堤内川から河道を撮影したもので、防備林に流失物の一部が引掛かる等して、洪水が右岸側に沿って走った様子を捉えている。つまり、2-1と2-2の写真に従えば、1986年の御勅使川洪水は扇頂部で既に右岸側に偏して流下していたと推察される。
 2-3は旧旭村(現白根町有野)で御勅使川が南流と北流の分派点から右岸側「出し」(写真裏説明は一番堤防から三番堤防まで)を破壊して横溢し、南勅使川筋に洪水主流が切れ込んだ様子を写している。遠くに北勅使川左岸側の山影が見られ、手前の点在する松林は、南北御勅使川を分けた水害防備林跡と推察する。また写真左から中央へに延びる聖牛類を主体にした「出し」は、御勅使川分派点で洪水主流を北派へ導く役割を持っていたと考えられる。
 2-4〜2-7の写真は、旧御影村に於ける南勅使川筋洪水による被災状況写真である。2-4は南北分派点から氾濫水主流が南御勅使川筋を通過した後の状況を示し、一帯が荒廃して砂礫河原と化し、立木や家屋、田畑等が一切見られない。遠く微かに北御勅使川左岸側の山影が見られ、手前には北勅使川右岸側(或いは南御勅使側の左岸側)の水害防備林と思しき樹林が点在している。2-5、2-6は、南御勅使川洪水の直撃を受けた旧御影村内の家屋被災写真で、砂礫が前者で約50cm、後者で約2m近く堆積して、家屋を埋没させている。なお2-5には合羽を纏い笠を被った地元有力者と思しき人物が、2-6、2-7には山高帽で脚絆巻の山梨県技師、或いは内務省技師と思しき人物が写り、彼等をして被災現地の調査と災害復旧の指導等が行われた様子が伺える。
 以上のように南御勅使川筋を流下した洪水主流は、多量の砂礫を伴って御勅使川扇状地上を駆け上り、釜無川に達した。そして洪水流は釜無川洪水を併せて竜王堤を直撃し、洪水到達後約2時間でこれを決壊させた。2-8は竜王村(現竜王町)の被災状況を撮ったもので、堤内の家屋が倒壊し破壊された様子を写し出している。竜王村では、この決壊によって家屋290棟が数日間浸水し、田39町歩、畑5町歩、宅地及原野24町歩が流失又は土砂堆積した。
 次に2-9から2-12迄の4枚の写真を見ていく。これらは全て釜無川右支川等の水害写真である。2-9は釜無川右岸側、旧田之岡村で聖牛等を新設している状況である、1896(明治29)年水害の資料には、竜王堤対岸の高砂今諏訪2番堤が破堤したと有るので、これは破堤後の水防活動であると考えられる。
 2-10は旧落合村(現甲西町落合)に於ける坪川の状況である。坪川は、ここ落合で9月8日、左岸側に決壊した。写真では、右(左岸)側の蛇行部攻撃側で聖牛類を設置する等して活発に水防活動が行われた形跡が伺える。
 2-11は旧五明村の滝沢川下流(或いは坪川下流)で地元住民が竹等を用いて木流しを行い、堤防決壊を防いだ状況を撮影したものである。ここ五明地区は、笛吹川合流点右岸側に位置して、甲府盆地で最も低い場所である。従って、写真中の河川は、2-10の写真と比べて緩流あることが判る。
 2-12は鰍沢村秋田(現鰍沢町)で戸川が決壊、氾濫した状況である。戸川はこの時、120間が決壊し、新田地区の24〜25軒が埋没した。写真では、土砂が1m内外堆積して、家屋を埋没させている。当時、戸川は天井川を形成していたため、破堤の影響は流送土砂を伴って広範囲に拡大したと考えられる。後の戸川の天井川切下げを主体にした改修は、1952(昭和27)年のことであった。
 さて、1896(明治29)年水害後、御勅使川と釜無川では、従来の治水策が見直されることとなった。従来の治水策とは、1542(天文11)年の釜無川洪水後、時の甲斐国の領主武田信玄が行った治水事業である。信玄は、甲府竜王地点に於ける御勅使川と釜無川洪水の直撃防止を目標に、御勅使川扇頂で分派乱流する御勅使川を一河道に整理して北流させ、更に扇頂直下で「将棋頭」という分流構造物を設けて御勅使川を南流と北流の二流に分流させた。そして、この南北二流を釜無川洪水に当てて揉み合わせ、これに加えて竜王地点等で「石積出し」を設ける等して、御勅使川と釜無川洪水の竜王直撃を防止したのである。ところが、1896年の出水では、洪水主流が南御勅使川に切れ込み、御勅使川洪水の分流を図ることが出来なかった。これがため、御勅使川洪水は竜王地点を直撃して、釜無川本堤決壊に至った。翌1898(明治31)年、再び御勅使川分派点南流側が決壊したので、この結果、同年、1896年水害の元凶、南御勅使川河道は、延長330間の石縦堤と言う石堤が「将棋頭」西から徳島堰まで築堤されて、締め切れられた。
 廃川処分は1930(昭和5)年であった。1896年水害を契機にして、御勅使川洪水の分流という信玄の治水策がここに廃されたのである。
 なお、1896(明治29)年の山梨県下の水害写真は、これ迄、殆ど発表されたことが無かった。地元住民提供の御勅使川洪水跡の写真等、『白根町誌』等に於ける掲載写真が知られるに過ぎなかった。それが一挙に12枚も見付かったのであるから驚きである。しかも、一連の写真は、御勅使川扇頂から竜王、鰍沢に至る広範囲で且つ荒涼とした被災地を撮影したものであるにも拘わらず、撮影地点や撮影方向、更に1896年水害の特徴を的確に捉えた価値の有る記録なのである。但し、一連の写真は、樋口桃雲写真館が独自に撮影したとは考え難く、水害調査を熟知した者、例えば山梨県或いは内務省が水害調査を行った際、写真技術師がこれに同行して撮影したものと推察する。
(解説文 岩屋 隆夫)(リスト作成 藤井 三樹夫)


≪参考文献≫
『山梨県水害史』『釜無川の水害』「白根町誌』『竜王町史』『増穂町史下巻』

2−1:源村(現・白根町)における御勅使川の石積出し(水制)の復旧工事状況
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2−2:源村(現・白根町)における御勅使川の洪水流が通過した松林
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2−3:旭村(現・韮崎市)における御勅使川一番堤防から三番堤防までの決壊状況
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2−4:御影村(現・八田村)における御勅使川分岐点付近での前御勅使川の破堤状況
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2−5:御影村(現・八田村)における人家の状況(その1)
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2−6:御影村(現・八田村)における人家の状況(その2)
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2−7:御影村(現・八田村)の前御勅使川破堤による人家及び田圃の被害
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2−8:龍王村(現・竜王町)の釜無川改修堤及び信玄堤決壊による人家の状況
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2−9:田之岡村(現・八田村)における堤防決壊に対する水防工事
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2−10:落合村(現・甲西町)における堤防決壊によって河原と化した山林及び田圃
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2−11:五明村(現・甲西町)において水防によって防禦した堤防
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2−12:鰍沢新田(現・鰍沢町)の戸川の堤防決壊によって埋没した村落(窪みは人家を掘った所)
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