1.神戸水道 布引ダム もどる
 幕末の開港政策で神戸が選ばれた。明治初期は急増する水需要に対してその整備が立ち遅れ、とくに居留地からは多くの不満が出ていた。そのため、港の船舶そしてまちに飲料水を安定供給するため本格的な水道施設建設が開始され、明治33(1900)年には生田川上流の渓谷部に布引ダムが完成した。正式には五本松堰堤と称し、わが国最初の重力式コンクリートダムで、工事長は佐野藤次郎であった。
 このダムの建設経緯については神吉和夫が別記にまとめている。また、五十畑弘が英国土木学会に保存されていた“KOBE WATERWORKS”と題した文献を見つけ、これをもとに布引ダム等の建設詳細を土木史研究に発表している。この資料は佐野藤次郎が論文投稿したもので英国土木学会が所蔵しており、その中の写真にダム関係12枚が残されていた。
 古市から寄贈された学会所蔵の写真10枚と英国土木学会所蔵のものとを比較するため、表にまとめた。英国所蔵のものは明治31年の工事着手から(No.1〜5)、学会所蔵は明治33年の竣工地で、表の並列している部分は同一写真で6枚あった。No.8とNo.5は同一場所から撮影したもので、1ヶ月あまりで満水状態になったことがわかる。また、英国所蔵の写真は保存状態がよく、細部まで識別可能と言われる。五十畑はその写真を見て、No.7では堰堤外壁面に浸透水のあと、No.8でも左岸側の堰堤およびその付近の岩が浸透水により湿っていることを指摘している*。
 英国人バルトンが明治26年に原案を作成し、長崎水道そして広島軍用水道工事に携わってきた吉村長策を経て佐野が完成させた。堰堤外側の装飾的な石貼りを施した意匠は優れたもので、阪神・淡路第震災を免れて100年を迎えた現役のダムである。
(増渕 文男)

神戸水道
 山陽新幹線新神戸駅から山側のハイキング路を、生田川の渓流に沿って布引の瀧(雌瀧、鼓瀧、雄瀧)を経て、約1km登ると眺望がひらけその先に巨大な堰堤が現れる。この堰堤は俗称を布引ダム、正式には五本松堰堤といい、1900(明治33)年1月に完成した神戸市水道水源貯水池堰堤で、わが国初の重力式粗石コンクリート高堰堤である。堰堤頂部側壁の石造銘板には英文で、建設に従事した技術者、吉村長策(顧問技術者)、佐野藤次郎(主任技師)および浅見忠治(監督技師)の名がみえる。
「CONSULTING ENGINEER MR.C.YOSHIMURA C.E
 ENGINEER IN CHIEF MR.T.SANO C.E
 RESIDENT ENGINEER MR.T.ASAMI
 WORKS COMPLETED JAN. 1900」
 外国人居留地を核とし、明治になる直前に産声をあげた湾岸都市神戸は、明治11年兵庫区域を吸収して区となり、明治22年には隣接の市街化しつつあった葺合村、荒田村と合併して人口約13.5万人の神戸市となる。古くから港として栄えた兵庫を除けば、六甲山系山麓から海岸へ至る、生田川、宇治川、湊川等により形成された狭隘な土地の大部分は田畑であり、河川は灌漑用水と水車動力源として利用されていたにすぎない。市民は井戸により飲料水を得ていたが、日照りが続く夏場にはしばしば渇水となり、神戸に立ち寄る船舶も給水を他の港で行う必要があった。
 神戸で水道敷設が具体化するのは公営水道計画としてはH.P.パーマー案(明治21年)、W.K.バルトン案(明治26年)があり、いずれも布引の渓流利用が含まれているが、バルトン案には渇水対策として貯水池建造が計画された。その案では内面石張、外面芝張の土堰堤で、堰堤高65尺、貯水容量は約31万トンである。バルトン案に基づく神戸市水道計画は明治26年9月政府の承認を得たが、政府の助成事業予算は国会提出に至らず、日清戦争の勃発により頓挫し、明治29年4月認可になった。この間、神戸港は横浜とならび内外貿易、物資輸送の拠点としての地歩を確たるものとし、明治29年4月には湊村、池田村、林田村を合併して年末には18.3万人の人口になる。バルトン案には葺合、荒田両地区への給水も含まれておらず、急激な都市の発展と物価騰貴に対処するため、水道計画は大幅な変更が必要になっていた。
 明治29年11月、神戸市水道事務所は工事長吉村長策、副長粕谷素直技師の体制で発足するが、計画変更にそなえ大阪市水道より佐野藤次郎が呼ばれている。粕谷は兵庫県技師としてパーマー案以来、水道計画に関与してきた技術者、一方、佐野は明治24年帝大土木工学科を卒業し、大阪市水道建設に従事、水道鋳鉄管購入・検査のため2年間グラスゴー(スコットランド)に滞在した経験を持つエリート技術者であった。吉村は長崎水道を設計したわが国のパイオニア的水道技術者で、大阪市時代には佐野の上司、明治29年には広島軍用水道工事科長であったが、神戸市が海軍に懇請し工事長として招聘された。佐野は明治30年3月粕谷が退職後副長に、さらに吉村が明治31年8月工事長を辞任すると翌3月工事長となる。神戸市水道建設はバルトン案を基礎に開始されるが、明治31年5月、内務省は神戸市から出されていた設計の一部変更を認可し、土堰堤はコンクリート堰堤となる。それ以前、佐野が工学会誌第百九十巻(明治30年10月)に寄せた(神戸水道水源)は、主として現今および将来の水需要に必要な貯水池容量決定方法を具体的に論じたものであるが、貯水池の一覧表には将来の項の五本松をコンクリートとしている。
 『神戸市水道誌』ほかの史書では、工事途中の設計変更を綱渡り的なもののごとく記述しているが、吉村がわが国初の重力式コンクリート高堰堤建設を想定して佐野を呼び、工学会誌への投稿も新技術導入の決意とその必要性を内務省の技術官僚を含む技術人に暗に訴えたものといえよう。佐野による堰堤建設計算の詳細が、配下の水野廣之進名で工学会誌第二百六巻(明治32年3月)にあり、図式解法も併記している。それによれば、堤体重量140/立方尺。最大許容応力8トン/平方尺、引張力を生じないを条件に設計している。浸透水による揚圧力は計算していないが、材料と工法の工夫より甚だしい浸透水と揚圧力は妨げるとしている。重力式ダムは水圧による堤体の転倒と滑動をその重量により防ぐもので、その設計法はほぼ確立していたが。浸透水による引張力の発生問題は1895年フランス・ブーゼイダムの決壊により注目されていた。それに対処する設計理論がLevyにより発表されるのは五本松堰堤建設中の99年であった。
 完成した五本松堰堤の概要は次の通りである。集積面積:1.163億平方尺、容積:2.729万立方尺、堰堤高:旧河床より105尺、堤頂長:364尺(幅12尺)、堤定幅:78.61尺、堤体:セメント1・細砂3・砕石(1〜2インチ大)6のコンクリートに粗石(1.5〜2立方尺大、丸石割石混合、粗石は約3割)を充填、両面および堤頂外面:間知石練積(建造時には型枠となる)・浸透水による揚圧力対策として、小孔をつけた内径1.5インチの鍛鉄管を縦横10尺間隔9段合計157本設置し、外面に排水、内面勾配22.4対1、外面勾配3対2(下部は内径30尺の円弧で接続)、取水塔:内径10尺・半円形(内部に内径12インチの導水本管があり、満水面下18尺3寸およびそれから20尺毎、計3管の取水口)、洪水吐:延長232.5尺(1,300立方尺/秒の洪水を4.7尺の越流水深で排除、古鉄軌を利用した通路(橋脚数6)付、堰堤側の2径間は切り下げて扉關を設置、満水時の平常流を放水)。
 堤体へ粗石を入れることは、重量を増すとともに高価なセメントの節約となっている。ダム本体に洪水吐を設けたり、洪水を越流させる考えは最初から無かったようである。洪水吐は後に、ダム流入口からバイパス放水路が造られたため、その役割を大幅に減じた。五本松堰堤完成後、漏水量が予想外に多かったことから、佐野は浅野を伴い自費でインドの石堰堤調査に行き、五本松に次ぐ烏原立ヶ畑堰堤は重力式粗石モルタル堰堤として設計した。モルタルの砂分にはスキル(下等レンガを粉砕して0.15mmフイルを通過したもの)と呼ばれた微粒分を添加している。
 取水場は雌瀧(標高205.5尺)と鼓ケ瀧(同325尺)に設置し、鼓ケ瀧の水は北野浄水場へ、雌瀧の方は奥平野浄水場に送水された。これは神戸市が六甲山麓から沿岸部までに分布するため標高で配水区域を分けたためである。取水場の概要は次の通りである。鼓ケ瀧取水場:長12尺、高10尺のコンクリート表面石張堰堤(門扉付水暗渠1)・取水口は銅網張半径8.2寸.雌瀧取水場:長56尺、幅4尺(底幅10尺)、高25尺の湾曲(半径75尺)コンクリート表面石張堰底(門扉付排水暗渠3)・左右に10尺高い痴台・取水口は2口(上:縦3.5尺横2尺、下縦横2尺)、左痴台上に高14.5尺、頂部半球状の石積取水井屋。
 明治32年に布引から取水して仮給水を開始しているが、神戸市水道の正式給水開始は明治33年3月となる。そのころ、神戸市人口は約20万人に達していた。神戸市創設水道事業は、兵庫運河開削(明治31年完成)、湊川の改修(明治34年完成)と合わせ明治の三大事業を呼ばれている。兵庫運河は小船舶が和田岬を迂回して兵庫港へ通じるもので、兵庫駅への支線も設けられていた。湊川は兵庫と神戸の間を流れる天井川で、神戸港への土砂流入と平地より20尺も高いため交通運輸の障害として、明治10年頃よりその付け替えが計画されていた。旧湊川河川敷は新開地と名称を変え開発されて、映画館・劇場・商店の建ち並ぶ繁華街となった。10〜20年余の前史があるにせよ、明治20年代末に起工したこれら三事業の相次ぐ完成が今日の神戸市発展の基礎を造ったといっても過言ではないであろう。しかも、それあらは日本人技術者の手によっているのである。
 神戸市の水道水は外国船舶にも給水され、水質良好なKobe Waterとして称賛された。しかし、現在、神戸市水道給水量の大部分は淀川の水であり、五本松堰底、烏原立ヶ畑堰堤等、神戸市内自己水源からの寄与は総量の数パーセント以下となっている。
 五本松堰堤は昭和13年の阪神大水害等により土砂が堆積し、貯水量は当初より減って47万トンになっている。以前から、老朽化が心配されていたが、平成5年の阪神大震災にも耐え、漏水量が地震直後若干増加しただけで被害はほとんど無かった。ただし、地震前から行われていた堤体へのグラウト注入が行われている。五本松堰堤は、平成10年10月文化財審議会の答申を受け、烏原立ヶ畑堰堤(平成38年完成)、千苅堰堤(大正8年完成)とともに平成10年10月、登録有形文化財に登録された。現在、五本松堰堤はライトアップも行われ、新幹線新神戸駅横の六甲山上ハーブ園をつなぐロープウエーのゴンドラからも眺めることもできる。Kobe Waterを象徴するこの歴史的土木構造物は現役の水道施設であると同時に、市民の憩いの場、観光資源としても活用されようとしている。
(神吉 和夫)
1−1:雌瀧取水堤外側
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1−2:雌瀧取水堤内側
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1−3:五本松堰堤内側
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1−4:五本松堰堤ヲ南側山上ヨリ瞰下ス
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1−5:五本松堰堤ヲ北側山上ヨリ瞰ス
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1−6:五本松堤外側
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1−7:五本松貯水池満水ヲ外側ヨリ望ム
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1−8:五本松貯水池満水ヲ上ヨリ瞰ス
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1−9:五本松貯水池満水ヲ内側ヨリ望ム
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1−10:五本松貯水池放水路新瀧
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