掲載雑誌(和): 日本土木史研究発表会論文集 Vol: 9巻 年: 1989年 頁: 165-172頁 著者(和): 昌子 住江 タイトル(和): 震災復興事業における河川・運河計画 抄録(和):
東京横浜における震災復興事業の主体としては、周知のとおり国の機関である帝都復興院(のちに内務省復興局となる)のほか東京市、横浜市(一部の事業については東京府、神奈川県)があった。復興計画はほぼ復興院の案にそって行なわれたが、独自の再建案を検討していた東京市側には不満もあった。大体のところは、双方の協議により合意が得られたものの、最後まで折りが合わなかったのが河川・運河計画である。当時の東京では、貨物輸送に占める水運の割合が割合が大きかった。しかし河川の管理改良にかける金額が少ないため、年々河川は埋まって船の通行に支障を来すところも出ていた。震災前東京市では河川の改良計画を持っていたが、震災復興事業に際し、さらに多数の河川改修を期待していた。しかし復興予算の削減のなかで、河川・運河計画も縮小されたのである。例えば、神田川と日本橋を結ぶ西掘留川の延長工事は、秋葉原駅に着く貨物を、隅田川を経由せず日本橋川以南に送ることと、行止りになっていて衛生上問題のある同川を、神田川につないで通水させることを目指したものであった。地元は、若しこの希望が達っせられない場合には、むしろ埋めてもらいたいとの意向を持っていた。結果は後者になった。また東京からは、隅田川の沿岸にそって道を付け逍遥公園にしたいとの要望が出されていたが、経費のうえから不可能とされた。震災復興事業では、むしろ河川沿いの道路を廃止し、直接工場・倉庫地帯を設ける方針が打ち出されている。運搬距離が遠くなる、荷役作業が通行人に防げられる、これらにより荷役費が割高になるなどの理由による(横浜では運河沿いの道路が維持された)。震災復興事業では、限られた予算配分のなかで、河川・運河よりも道路を優先するとの方針が示されたと同時に、隅田公園という河岸公園は生んだものの、設計思想としては、基本的に河川沿いの道路を廃することで、一般の人が河川に近づく機会を減少させたといえよう。しかしながら、逍遥道路を設けなかったことには、当時も環境や景観の側面から批判が寄せられており、さらには貨物輸送における利便性を優先したはずの設計にたいし、水上小運送業者の組合から、潮の満ち引きによって地面までの高さ異なるので、護岸荷揚げの設備は、横浜のような階段式ないし傾斜式にしてほしいとの要望が出されているのが注目される。 キーワード(和): 震災復興、都市内水運、物揚場 掲載雑誌(英): PAPERS OF THE RESEARCH MEETING ON THE CIVIL ENGINEERING HISTORY IN JAPAN 著者(英): Sumie SHOJI タイトル(英): THE RIVER PLANNING IN KANTO EARTHQUAKE RECONSTRUCTION PROGRAM 抄録(英):
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